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2009年07月 アーカイブ

2009年07月17日

韓国婦人会 老人ホーム慰問レポート

如来ディサービスセンター
【如来ディサービスセンター】
 7月16日、金興林部長引率の元、日本に嫁に来た韓国婦人5人が愛知県名古屋市北区如来町にある「如来ディサービスセンター」を慰問した。この日はホーム開設6周年記念にあたり、祝賀の企画として韓国婦人会が参加した。

韓国婦人会

 午後2時から始まった慰問は、韓国の歌と踊り、日本のなつかしい歌も交えて披露された。途中で金部長による韓国の歌があり、渋い歌声に魅了される人が多くいた。また、一緒になって踊る人たちや席で聞き入る人たち、そして周りで一生懸命世話をする職員の人達が一体となって、あっという間に1時間が過ぎた。

共に歌う

 その後、参加者の一人である李聖玉さんが日本に嫁いで来てからの体験談をユーモアを交えて語られた。ご老人の中には、自分の娘とダブらせながら感激している人もいた。

 その後、ご老人らが5~6人ずつ各テーブルに分かれ、それぞれのテーブルに韓国婦人が付いて歓談した。そこに職員達が6周年の祝いのために作った手作りのケーキとコーヒーが運ばれ、和やかな雰囲気に包まれた。

 同席した男性からは、「徳川家康の鷹狩りの鷹匠をしていて500石の知行をもらった人が先祖にいて、その名字が高麗といい、自分の母方にあたる。だから自分には朝鮮の血が流れていて、今日のこういう歌を聞くのがとても好きだ。毎月でも来て欲しい。そして、こんなことを他人に話したのは初めてだ。」という話が聞けた。韓国婦人会の参加者らは、とても不思議な巡り合わせを感じていた。

第9回渡来人文化遺跡歴史探訪ツアー報告

 大阪・和歌山の連合会主催による第9回目を迎える渡来人文化遺跡歴史探訪ツアーが5月9日からの2日間開催された。今回の参加者は47名。「鞆の浦」、「沼名前神社」、「しんいち民俗博物館」、「厳島神社」、「平和記念公園」、「平和統一聯合創設5周年記念講演会」参加という内容のツアーになり、これまで日帰りが主であったが宿泊付きで遠征したのは今回が初めてであった。寝食を共にした分、心情的にも近くなり、仲間意識も深まった様である。

 初日、福山市鞆町を訪問。朝鮮通信使が西日本で停泊したところの中では、「対潮楼からの眺望が最も美しいと絶賛した。」という記録も残っているのが「鞆の浦」である。鞆町出身の有名人には森下仁丹の創始者・森下博氏、『春の海』の作曲者・宮城道雄氏がいる。

対潮楼(たいちょうろう)から鞆の浦を望む風景
【対潮楼(たいちょうろう)から鞆の浦を望む風景】

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 先導者が途中、道に迷ったため、午後2時頃、沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)に到着した。

沼名前神社
【沼名前神社】

第2鳥居(肥前鳥居)県・重要文化財指定
【第2鳥居(肥前鳥居)県・重要文化財指定】

普段は一般の参拝客が入れない拝殿にも特別入れて頂き、宮司さんから神社の由緒と鞆の浦の歴史について詳しく説明して頂いた。翌日に神事で舞いを奉納する為、地元の有志たちが集い、能楽堂で稽古をしているのに遭遇することが出来た。普段は締め切られている所なので本当に幸運であった。

記念撮影

宮司さんから

 予定していた素盞嗚(すさのお)神社へは参加者の希望から立ち寄らず、近くの「しんいち民俗博物館」を見学した。館長の山名氏が直々に館内をガイドして貰った。近くの尾市山古墳の石室の模型や、発掘された三角縁神獣鏡など埋蔵物が陳列されていた。昔、どのような教育がなされたのか、農民の子供たちが寺子屋で学んでいた書物や古地図なども陳列されていた。地場産業として歴史のある備後絣(びんごがすり)の機織(はたお)り機なども展示されていた。

しんいち民俗博物館
【しんいち民俗博物館】

展示物を観る参加者
【展示物を観る参加者】

記念写真


 夕食には、福山市在住の佐藤氏(FPU第11連合会)のお勧めの七輪炭火焼肉でのディナーとなった。満腹になったところで、宿所の可部・広島研修センターに向かった。疲れた体を癒すのに大きな浴場が心地良かった。明朝に備えて修学旅行気分で就寝。夫婦・VIPのみ個室の別室を利用頂く。ホテルではないので少々不便であるが、これも経費を抑えるため。昔、可部にも新羅からの渡来人たちが暮らした遺跡も周囲には多くある。白木町・白木山などの地名も近くには残っている。古に想いを馳せ、近世の渡来人の末裔たちが寝息を立てている。

 2日目は「厳島神社」を訪ねた。生まれて初めて来た方々も居て、想い出深い探訪となった。

満潮時の大鳥居
【満潮時の大鳥居】

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この日は、夏を思わせる様な閑々照りであった。バスで昼食を済ませ、「平和記念公園」を散策。原爆ドーム前にて記念撮影の後、韓国被爆者慰霊碑を参拝、黙祷とアリランを歌って献花を手向けた。

平和記念公園

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午後1時から、「平和統一聯合創設5周年記念講演会」が広島厚生年金会館で開催され、約2000名の観客で会場は埋め尽くされていた。歴史探訪ツアー客も訪問団として参加し、司会から紹介され、場内を沸かせた。
 スケジュール上、午後5時には広島を出発し、新大阪・天王寺を経由し、午後10時半に最後の鶴橋に到着。

強行軍でのツアーであったが、これまでに無く中身の濃いツアーで参加者は大いに刺激を受け、それぞれ旅の想い出を締め括った。全快し切らない姜煕滿事務局長は身を挺して参加者を盛り上げ、大連旅順ツアーの意義と参加を熱く訴えていた。

FPU歴史文化探訪ツアー 伊勢神宮参拝

 朝鮮半島において新羅と高句麗の連合軍に敗れた百済の王室が日本に逃れてきて、その時の百済の王室の姫の一人を「天照大御神」として奉り日本における国づくりをしていったというある一つの説を元に、6月26日 「FPU歴史文化探訪ツアー 伊勢神宮参拝」が愛知連合会により企画された。

 まず、参拝の前に五十鈴川の川辺に行き、深緑色して澄んだ川面を眺めながら美味しく昼食を頂いた。参加者からは「境内の真ん中にこのような大きな川が流れていることに感動しました。」とコメントがあった。
昼食タイム


 一同は昼食後、時間の関係上、内宮のみを参拝した。伊勢神宮は20年毎に遷宮するのですが、それは宮大工が建築の技術と伝統を継承していくために行われている。

参拝

 一同らは、境内を案内任の説明を聞きながら回り、中心である正宮前で全体写真を撮り、天照大御神と朝鮮半島の関係の説明を受けた。

記念写真

涙の高暮ダム朝鮮人犠牲者慰霊祭

 7月9日、広島連合会主催で「広島県三次市高暮ダム朝鮮人犠牲者慰霊祭」が厳かに行われた。参加者は18人。

参加者一同


 広島県三次市から高暮ダムまで車で約1時間。今回、日本人ボランティア実国さんによる案内があり、何人かの証を基に聞かせていただいた。

韓会長と実国さん
【韓会長と実国さん】


 高暮ダムは、朝鮮人約4000人を投入して1939年~1949年まで建築された。現在では、どのくらいの人数が犠牲になったのか全然わからないままで、当時の生存者はほとんど亡くなっていない。ダムのコンクリートの中には、空気を抜く作業の時、合図を聞けずコンクリートと混ざってしまった朝鮮人もいるという。

当時の資料

当時の資料

当時の資料

【当時の資料】

 参加者一同は、心をこめて祭壇を作り手を合わせ、冥福とともに平和を作り出すよう、涙を流しながら新たな決意をした。

慰霊の祭壇

手を合わせる


2009年07月23日

第10回渡来人文化遺跡歴史探訪ツアー

 茹だる様な暑さの真夏日の前日とはうって変わって、7月17日当日朝の天気予報では雨模様という予想であったが、小雨がパラつく程度であった。34名の歴史探訪愛好家たちが集った。毎週金曜日に大阪市営地下鉄・ニュートラム・バスを600円で一日乗り放題できる“ノーマイカーチケット”を利用し、探訪コースを設定した。一行は大阪歴史博物館からスタートし、難波宮跡公園、鵲森宮神社、四天王寺を訪ねた。


大阪歴史博物館を見学
大阪歴史博物館

【大阪歴史博物館】を見学

 「巡る、感じる、考える。」 都市おおさかの歴史体感スポット。10階建ての近代的な建物の中には、古代のロマンが一杯詰まっていた。一行はまず2Fの研修室で大阪歴史博物館の学芸員による説明を受け、館内のみどころについて概要を伺った。

学芸員による説明
【学芸員による説明】

 その後、10F「古代フロア」には奈良時代の難波宮の大極殿が原寸大に復元された空間が広がっていた。1300年前にタイムスリップした様であった。直径70cmもある朱塗りの円柱が整然と並んでいた。冠位を表す礼服に身を包む都に仕える官人たちの等身大の人形が当時の宮中の様子を再現してくれていた。また、自動的に窓のブラインドが上下し、CG技術が駆使され、巨大なモニターは当時の様子を色鮮やかに描き出してくれ、圧巻であった。10階の窓の外は、難波宮跡公園が眼前に見下ろせる最高のロケーションであった。大阪城にも近く、綺麗に見える。


 学芸員の案内にもあったが、建物の地下には遺溝が見学できる空間が広がっていた。20分ほどで見学出来るコースでボランティアの方がガイドを務めてくれた。


難波宮跡(なにわのみやあと)公園を歩く

 昼食のお弁当に舌鼓を打ち終えた一行は、博物館のすぐ近くの難波宮跡公園を歩いた。大化改新(645年)後に都として創建された前期難波宮跡、また副都として大きな役割を果たした後期難波宮跡が中央区法円坂一帯にあることが明らかになっている。大極殿を中心におよそ1km四方に広がる規模だったと言われている。大極殿の礎石群が残っており、周囲は「難波宮跡公園」となっています。孝徳天皇の宮跡を天武天皇が引き継ぎ、さらにその上に聖武天皇が宮を築いたと推定されている。

難波宮跡

 難波宮跡公園の北側を東西に通る阪神高速道路東大阪線は、ほぼ全線が高架構造にもかかわらず、難波宮跡付近の部分だけ平面となっている。これは、建設に先立つ事前協議の結果、難波宮跡の遺構の保存と難波宮跡公園から大坂城跡への景観を確保するために「平面案」が採用されたためである。しかし、この突如として現れる急な勾配区間のために、事故や渋滞の原因となることも多い。なお、平面部分の道路の基礎は、難波宮跡中心部の遺構を破壊しないよう、地下に杭を打ち込まないような特殊な構造となっている。


鵲森宮(かささぎもりのみや)
 鵲森宮(かささぎもりのみや)は、大阪府大阪市中央区にある神社である。式内社で、旧社格は県社。通称を森之宮神社(もりのみやじんじゃ)といい、周辺の地名である森之宮の由来となっている。1400年前にもその名が記されている由緒ある神社。聖徳太子命名の亀井水碑もある。
 かつては威勢を振るっていた広大な境内地も、小社と言った方がよく伝わる佇まいに鎮守されていた。近くまではよく通りかかっているところであったが、これまでその存在に気付かなかったくらいである。小さくも1400年以上守り続けられてきたお社には、威厳を放っていた。社務所で小さな冊子を頂いた。鵲森宮の宮司を務める石崎正明氏の著書であった。美しい日本語、日本文化の大切さを訴えておられる。

鵲森宮


祭神
 聖徳太子の両親である用明天皇・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后、および聖徳太子を主祭神として本社に祀り、奧社に天照大神・月読命・素盞嗚命を祀る。

歴史
 聖徳太子は物部守屋との戦いの戦勝を祈願し、勝った暁には四天王を祀ることを誓った。戦勝後の崇峻天皇2年(589年)7月、まず両親を現在地に祀って寺の鎮守とし、その森に四天王を祀る寺(元四天王寺)を創建した。四天王寺はその25年後に現在の荒陵山に移転したが、当社はそのままとされた。
『日本書紀』の推古天皇6年夏4月条に、聖徳太子の命により新羅へ渡った吉士盤金(きしのいわかね)が、2羽の鵲(かささぎ:かつて韓国で国鳥の候補にもあがった鳥であり、幸福を知らせる吉鳥と言われる「カチガラス」)を持ち帰り、難波の杜で飼ったという記述がある。

鵲

 その「難波の杜」は当社の森であるとされることから「鵲の森」と呼ばれるようになり、ついには当社の社名となったと伝える(「難波の杜」は、他に生國魂神社なども比定地となっている)。元の四天王寺とも言われる江戸時代の地図を見ればそれがわかる。

江戸時代の地図
上記が江戸時代の地図である(無名氏考証 難波古絵図 市立中央図書館蔵)。 
創建壱阡四百年記念誌『かささぎ』には多数掲載がある。


和宗総本山 四天王寺(わしゅうそうほんざん してんのうじ)を参拝

 四天王寺は、大阪市天王寺区にある寺院。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音(ぐぜかんのん)である。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)とも言う。
 『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されている。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。宗派はもと天台宗に属したが、日本仏教の祖とされる聖徳太子建立の寺であり、「日本仏教の最初の寺」として、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に和宗総本山として独立宣言を出している。
 一行は、中心伽藍、本坊庭園、宝物館を拝観した。歴史と伝統の重みを持つ、さすが聖徳太子が直接創建に関わったたった二つの寺院のうちの一つだけのことがある。今回、あまりにも近くにありながらも、これまでその価値があまり分からずにいた歴史遺産であったという印象を受けた。かつて難波(なにわ)と呼ばれた大阪の地を改めて誇りたいと思う。

創建に関わる異説
 当初の四天王寺は現在地ではなく、摂津の玉造(大阪城付近)の岸辺にあり、593年から現在地で本格的な伽藍造立が始まったという解釈もある(森之宮神社の社伝では、隣接する森之宮公園の位置に「元四天王寺」があったとしている)。
 また、山号の「荒陵山」から、かつてこの近くに大規模な古墳があり、四天王寺を造営する際それを壊したのではないかという説もある。四天王寺の庭園の石橋には古墳の石棺が利用されていることはその傍証とされている。
 大阪にある帝塚山古墳は、「大帝塚山」「小帝塚山」地元で称されているものがあり、現在一般的に帝塚山古墳と呼ばれているのは「大帝塚山」である。その大帝塚山は、別名荒陵とも呼ばれていた。なお、小帝塚山は、住吉中学の敷地内にあったと言われている。
 また、東高津神社は、仁徳天皇の皇居であるとする明治31年(1898年)の大阪府の調査報告などがあることから、歴代天皇のいずれかの皇居であったのではないかという説もある。
 なお、20世紀末から「日本仏教興隆の祖としての『聖徳太子』は虚構であった」とする言説が盛んになり、『書紀』の記述に疑問を呈する向きもある。また、上記の『書紀』の記述とは別に、四天王寺は渡来系氏族の難波吉士(なにわのきし)氏の氏寺であったとする説もある。

以上

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