【大阪】渡来人文化遺跡歴史探訪ツアー
近畿連合会では、10月29日には第28回目、11月4日には第29回目「渡来人文化遺跡歴史探訪ツアー」を開催した。
第28回ツアーの10月29日には高野山、11月4日には岡山県総社市にある鬼ノ城(キノジョウ)を探訪した。
鬼ノ城は、桃太郎説話や「温羅(うら)伝説」の舞台として、古くから親しまれてきた。その築城の目的については、663年の白村江の戦いにおける敗北から、唐・新羅の連合軍が本土に侵攻するのではないかと危機感を抱いた当時の政権が、西日本各地に築かせた古代山城の一つであるという説がよく知られている。
しかし鬼ノ城は、『日本書紀』などには一切登場せず、築かれた時期についても様々な説があり、未だ多くの謎に包まれた遺跡である。
昭和53(1978)年の鬼ノ城学術調査団による調査、さらに平成6(1994)年からの総社市教育委員会による発掘調査が行われ、角楼(かくろう)や城門など、城の外郭(がいかく=外側)の壮大な姿が次々と明らかになった。
鬼ノ城は、古代の正規の歴史書には登場しないが、後世の文献である鬼ノ城縁起などにでてくる。それによると「異国の鬼神が吉備国にやって来た。彼は百済の王子で名を温羅(うら)という。
彼はやがて備中国の新山(にいやま)に居城を構え、しばしば西国から都へ送る物資を奪ったり、婦女子を掠奪したので、人々は恐れおののいて『鬼ノ城』と呼び、都へ行ってその暴状を訴えた・・・」。
これが、一般に温羅伝承と呼ばれる説話で、地名もこれに由来している。
真実は、吉備地方は、製塩技術に加え、温羅の渡来によってもたらされた製鉄技術による、吉備の国はますます繁栄した。製鉄農具は吉備の沖積平野の開発を進め、製鉄農具は軍事力を増強した。
吉備の国の政治勢力はどんどん強まっていった。勢力のほどは、全長350mもある造山古墳(岡山市高松町)や、全長270mの作山古墳(総社市三須)からうかがい知ることができる。
こうして城のふもとに広がる阿曽郷(あそのごう)は鋳物師(いもし)の地として知られるようになり、温羅は阿曽郷の神職の娘・阿曽媛(あそひめ)を妻にめとった。吉備の国の首領となった温羅は、民衆から「吉備の冠者(かんじゃ)」と呼び親しまれるようになったのだが・・・・・・。
吉備の国の繁栄は、全国統一をもくろむ大和朝廷には面白くなかった。そんな折も折、大和朝廷は勢力拡大のために北陸、東海、丹波、そして西道(山陽)の四カ所にそれぞれ将軍を派遣することにした。西道の将軍に任命されたのが、吉備津彦命(きびつひこのみこと)である。
吉備津彦命によって侵略された吉備の国。命は見せしめとして温羅の首をはね、それをさらした。民衆はこれを嘆き悲しんだという。桃太郎の昔話の背景に渡来人の歴史があったことをほとんどの日本人は知らない。今回の探訪ツアーは新たな事実を知ることができた貴重な体験だった。
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