江戸時代、「信(よしみ)を通わす」朝鮮通信使が計12回来日し、その度に朝鮮ブームが巻き起こった。一行は最大500人の規模。福岡藩は相島(現、福岡県新宮町)で接待した。相島は新宮港の7・3キロの沖合いに浮かぶ半月形の島(周囲およそ12キロ)。
迎接準備のため、城下から多数の藩士や職人が渡った。客館は一時的に作り、毀した(現在、客館跡之碑が立つ)。1764年に来日した通信使の書記、金仁謙(キムインギョム)は『日東壮遊歌』に、「この島の村落は極めて小さいが 館所は壮麗で 絹の幔幕をはりめぐらし 緋毛氈を敷き 寝房、渡り廊下、浴室、厠にいたるまで すべて精巧な造りだ」「我らの一日分の食費として 銀一万両がかかるという」と記す。
その時々の天候で、事故も発生した。1719(享保4)年7月、通信使入港の1週間前、大風の中で受け入れ準備の作業中、藩士・浦水夫ら61人が犠牲になった。その墓石の一部が、島の東側の沿岸に広がる積石塚群(国指定史跡)の一角にある。
通信使の来日は、異文化に接触できる絶好の機会。福岡藩主の世継ぎ、幼少の継高でさえ、藩士の案内で相島の客館などを見物したことが、製述官・申維翰の『海遊録』に載っている。継高は後に6代目藩主に就任し、通信使を3回接待した。城下の櫛田琴山、小野玄林、亀井南冥ら儒学者、医師らも渡海して筆談している。
その一方で、労働奉仕や荷役運搬に借り出された人たちがいた。1682(天和2)年の通信使迎接で、相島の島民延べ3850人が約2カ月間を要して2基の波止場を築造した。
福岡藩は饗応膳として、高官には儀式用の「七五三膳」、実際に食べる引き替え三汁十五菜が出された。帰路には、賄いのため食材を提供。米、味噌、醤油、酒、酢など一日につき一人当たりの分量が決まっていた。
『海遊録』の著者・申維翰は「新築した館は千間に近く、帳御諸物すべて華美である」と褒めたたえ、島人の生活を一見して、「竹籠や花欄を見るに、眼に触れるもの画の如く、その中であるいは対坐して碁を囲み、碁石の音の丁々たるを聞くのは、東坡翁の白鶴観の思いがある」と感想を述べている。
強風と波浪のため相島に24日間留まった後、金仁謙の乗った通信使船は赤間関(現、下関)に向かう。途中、芦屋沖で大風雨に阻まれ、地島(現、宗像市。鐘崎沖)に緊急避難し、殿様波止から上陸した。地島は「地は狭くして陋、憩うべき館舎もない。居民は数十戸、 草屋は蕭然としている」。西光寺に国書を安置し、寺や民家に泊まった高官らを除いて船に戻った。地島に8日間足止めを食らった後、福岡藩に護衛されて小倉沖まで行き、小倉藩の迎護船と交替した。福岡藩領を通過するのに18日間もかかっている。
【ユネスコ世界の記憶】
・福岡藩朝鮮通信使記録(黒田家文書) 15冊=所蔵:福岡県立図書館
・小倉藩朝鮮通信使対馬易地聘礼記録 (小笠原文庫)6冊=福岡県立育徳館高等学校錦陵同窓会、みやこ町歴史民俗博物館寄託
【転載】『二十一世紀の朝鮮通信使 海路をゆく 対馬から大坂』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)