朝鮮王朝時代、釜山の中心地は、東萊(トンネ)であり、集落に取り巻かれるように役所や市場などがあった。城壁に囲まれた街である。
東萊商人に代表されるように、朝鮮国内でも有力商人がいた地域である。日本とも対馬藩を通じて、商売していた関係で、他の地域、他の商団とは違った商品を扱っていた。その片鱗は、慶州崔氏を扱った韓流歴史ドラマ『名家(ミョンガ)』で紹介されているし、済州島を舞台にしたドラマ『金萬徳(キムマンドク)』では、正祖(チョンジョ、第22代王)の時代における、全国の朝鮮商人の版図が明かされている。
東萊の周辺に市場が形成されている。なかなか、広い。平日ながら、買い物客も多く、活気を感じられた。歩いていて、宋公壇に出くわした。立派な築地塀で囲まれた史跡であることはすぐわかった。秀吉の朝鮮侵略で、戦死した東萊府使、宋象賢(ソンサンヒョン)と義士を祀ったところである。中に入りと、宋象賢の大きな事績碑があり、さらに行くと数基の墓碑が並んでいた。市場のわきにある割には、門を入ると、別世界のように静かであった。
宋象賢は1591年(宣祖24)、慶尚道東萊府使となった。翌92年4月、壬辰倭乱が勃発すると、他の将軍や官僚が逃亡する中で東萊城にとどまり抗戦を指揮した。小西行長らの「戦則戦矣不戦則仮我道」(対抗したければ対抗しろ、それとも道を退くか)という降伏勧告に対して「戦死易仮道難」(戦死するは易し、道を仮すは難し)と返書して拒否し、戦死した(東萊城の戦い)。落城後、旧交のあった宗義智の家臣柳川調信は宋象賢を悼む碑を建てて弔った。
最後に東軒をみたが、敷地がぐっと広くなり、まだ完成したばかりの望楼など、役所の建物が数棟再現されていた。古くからある忠信堂に入り、昔の様子を伝えるミニチュア模型や写真資料で、当時を偲ぶことができる。やはり、東軒の周辺の市場は今以上のにぎわいである。
敷地の一角に、東萊府使を務めた役人の「徳善政碑」が4基ほど立っていた。自らの功績を自らが建立して、後世に残そうとした自意識過剰ともいえる顕彰碑は韓国には数多く残ってい る。帰路、市場で餅を買い、それを地下鉄駅のすぐそばを流れる河川敷で食べた。河川敷といっても、側溝のようなところである。壁面を見ると、朝鮮通信使行列が描かれている。
都・漢城を出た、通信使一行は東萊まで約500キロの道程の間に5、6カ所で役人から盛大な接待を受けた。東萊に入るときは、祝砲は打ち上げられ、沿道は押すな押すなの人垣だった。行列絵巻をみていると、その歓声が聞こえてきそうだ。
【転載】『二十一世紀の朝鮮通信使 韓国の道をゆく』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)