(1)大坂
商都の繁盛に驚き隠せず
通信使一行は大坂の繁盛を驚きのまなざしで見まわした。ただ、その積極性よりは、まず「大坂は秀吉」という先入観が、もちろんあった。「此処がまさしく平酉(秀吉)の旧都として、その富麗だったことを偲ぶことができる」(使行録から)と、執拗なほどに秀吉の悪行と滅亡を当然の報いとばかりに書き記している。これは秀吉が隣国を侵略し、自国の百姓を苦しめ、その都を豊かに華やかにしていたとの非難であった。
大坂に入り、内心では商都としての繁盛にいささか驚いた様子であったが、秀吉の侵略戦争による弊害と歴史の審判で、「逆天者は亡び、順天者は興る」という歴史上の真理を回想するが、これは使行録に記入するもう一つの決まり文句だった。
従事官の申濡(シンユ、1610~1665)の『海槎録』に詠まれた「大坂行」と次のような詩は、大坂城は今は秀吉の城ではなく、太平歌の聞こえる新たな城邑に生まれ変わったのを見て、徳川幕府との交隣を立てる内容になっている。
(前略)
天を射て陰謀の渦が隣に及び/冤魂幾ばくか!/雷のように光る憤怒がいまだにいて/天道は元来人に勝つ/身の変生は実は手を借りたこと/屍が冷めない内に、剣が一門に及ぶ
(中略)
これから日本が戦争をやめ/徳川の偉業が三代に伝わり/旧好は待たずに血盟を申して/使臣が続いて船で来た
(後略)
次に、大坂の町の様子を記した、1719年来日の申維翰(シンユハン)の『海遊録』を見てみたい。
「橋が二百余、仏宇が三百余、公侯たちの邸宅もまたこれに倍する。庶民つまり農、工、商賈、素封の家もまた、千万をもって数える」
「そのなかに、書林や書屋があり、牓をかかげて、曰く柳枝軒、玉樹堂などなど。古今百家の文籍を蓄え、またそれを復刻して販売し、貨に転じてこれを蓄える。中國の書、我が朝の諸賢の撰集もあらざるはない」
「蘆花町には娼屋や妓院があり、それが十里にわたって、錦繍、香麝、紅簾、画帳を飾っている。女子は国中の美人が多く、名品を設けて奉華をほこり、金を算して媚を賭ける。よく一朝にして百金に値するものがある。その風俗は、淫を好み、姱麗を尚ぶ。閭巷の男女も、ことごとく錦衣である」
1764年来日した通信使・書記の金仁謙(キムインギョム)も、驚きをもって大坂の町を眺めたことが、彼の書いた『日東壮遊歌』から伝わってくる。
北御堂で通信使殺害事件も
大坂の宿泊先となる客館は、東本願寺北御堂である。高麗橋で大坂港から遡上して来た川御座舟を下りて、行列をなして、北御堂へと向かう。沿道の見物客は、遡上する舟を見るため川の両岸を埋めた。それほど、隣国の使節は商都・大坂で人気を集めた。
北御堂は、いま御堂筋の大道路添いにある。地下鉄の最寄り駅は心斎橋駅。江戸時代、かつては威容を誇っていた。「使行は西本願寺に館した。これは、大坂諸寺のなかでもっとも大きく、かつ華麗である」と1719年、宿泊した製述官・申維翰は記す。
商都のにぎわいに、通信使一行は驚く。すでに先発組から噂は聞いていたと思うが、その実際を眼にして、さらに興味が湧く。製述官の申維翰は通訳官を連れて、北御堂周辺を散歩している。漢詩文を交換する彼らの役目は大きく、宿泊先で来客の対応に追われたが、散歩はそれから解放された、気分転換の時間ともいえた。
通信使が訪れる度に、北御堂には求詩求画の人波でにぎわった。日朝文化交流の場となった北御堂で1764(明和元)年、通信使の随行員が殺害される事件が発生する。
この事件は対馬の通詞役・鈴木伝蔵が、都導訓・崔天宗を殺害したものである。正使は趙曮と称し、一行330余人、江戸城での将軍家謁見、饗応の儀式など万端とどこおりなくすませて3月11日、江戸を出発した。事件は大坂に滞在中、4月7日払暁に発生した。
なぜ、殺害に及んだか。鏡をなくした崔天宗は、鈴木伝蔵が盗んだと思って彼を馬鞭で打つが、これに憤慨した伝蔵が犯行に及んだといわれる。ただ、朝鮮人参の潜商(密貿易)がからんでいた可能性もある。
事件の性格から見た場合、国際紛争に発展しかねない重大事件。大坂城奉行所は、その解決に向けて乗り出し、犯人の鈴木伝蔵を捕らえ、処刑したことで一件落着となった。
その間、1カ月余り、通信使は大坂で足止めを食った。
世上をにぎわせた事件だけに、人形浄瑠璃、歌舞伎でも取り上げられ上演された。一般的に「唐人殺し」といわれる出し物で、歌舞伎では近松門左衛門の『世話料理鱸包丁』や『韓人漢文手管始』が知られている。
【ユネスコ世界の記憶】
・正徳度朝鮮通信使行列図巻
・天和度朝鮮通信使登城行列図屏風
・正徳度朝鮮通信使国書先導船図屏風
・正徳度朝鮮通信使上々官第三船図供給図
・朝鮮通信使御楼船図屏風 ・朝鮮通信使小童図
・釜山浦富士図 ・蒲相八景図巻
・寿老人図 ・松下虎図 ・任統詩書
【転載】『朝鮮ブーム 街道をゆく ~大坂から江戸、日光へ~』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)