空が薄青くなって、やや赤みが混じった夕焼けになる手前、仕事を終えて気分転換に神田川沿いを歩いていた。
川には鯉が時々音を立てて存在感を示すように跳びはねた。
生き物の立てる音は、どこか自然の音楽のようで美しい。
これが汚染された川だと、無音で無機質というイメージで、静かであるけれど、どこか機械的で不気味である。
無音の中に、生き物が立てる音は、ちょうどかつて俳聖の松尾芭蕉が詠んだ「古池や蛙飛びこむ水の音」のように、一つの違和感のある要素を投入することで、かえって静かさが際立つような効果がある。
自然は、様々な生物が生きているために無秩序な世界のように思われるけれど、実際は全体として調和を生んでいる。
それこそ、詩人の金子みすゞが歌ったように、「みんなちがってみんないい」といっていいだろう。
それは生物だけではなく、人間の世界においても共通することで、異なった人種の人々が共存共生するからこそ、「みんなちがってみんないい」のである。
そこから、戦争のない平和への道が開かれていくのではないだろうか……。
そう思うと、川の音や風の音、葉がなる音、時々混じる虫の声など、すべてが母なる自然の豊かな祝福のようにも感じてしまう。
散歩が楽しいのは、こうした自然の息吹に感覚的にふれることができるからである。
今は、環境問題への意識が高まっているせいか、生物が生息できるような川や沼が増えているように感じる。
神田川沿いの遊歩道には、桜の木が多く、春になると満開となり花見には絶好のスポットとなる。
だが、今の期間は葉桜ばかりで、川面を覆うように影を落している。
ジョギングをする人にも、よく出会うが、気になるのはその表情である。
ストイックに何かに耐えているかのような表情で、ただひたすら前だけを見つめて息を弾ませながら走り去る。
おそらく健康のことを思って、決められた時間や距離を達成するためにノルマ的義務的に走っているのかもしれない。
太りすぎたための痩せるためのダイエットなのか。
あるいは、走ることに一種の快感を覚えているのか。
それはわからないけれど、外面的に見ると、どうしても楽しんでいるようには見えない。
苦痛に耐えている修行僧のような表情だ。
もちろん、ジョギングをして運動することは、身体にはいい効果を与えることは間違いない。
ベストセラーの『スマホ脳』の著者、アンデシュ・ハンセンの著書に『ストレス脳』という別な本がある。
これは現代のストレスを扱ったもので、『スマホ脳』と同じように、古代の飢餓常態から生きるために備わっている本能であり、それを無くすことはできないと指摘している。
その古代世界の精神的な遺伝子が今なお、われわれの生活を縛っているというわけである。
だからこそストレスは無くならない。
現代社会で、鬱病患者が増えているのも、そうしたストレスによるものであるから無くならない。
だが、それを軽減させることができるとハンセンは述べている。
それが運動であるという。
運動することによって劇的に鬱病から回復したという例を統計的な数字で紹介しているので、ジョギングは身体的な健康効果だけではなく、精神的な効果もあるということになる。
それはいいのだが、もう少し楽しい表情ができないか、と少しばかり膝が悪くてジョギングができない私は思ってしまう。
余計なお世話かもしれないが、もう少し笑い顔で、楽しそうに、そして幸せな気分を回りに与えるようなジョギングをである。
とはいえ、歩くこととは違って、筋肉の運動量を多大に使い消費しなければならないジョギングでは、そうした余裕はないのかもしれないが。
そんなことを考えているうちに、空が暗くなってきた。
昼間に比べて夕暮れ時間は気分的にも寂しさや悲しさがわいてきて、感傷的な気分になりやすい。
夕暮れ間近なので、その感がひときわ深い。
そんな時、目の前の空中をスーッと何か細長い虫が横切った。
何だろうと視線で追うと、夕暮れの空に多数の虫が飛んでいた。
よく分からないので、目を凝らして見た。
トンボだった。
それこそ、数十匹のトンボが神田川の上で飛び交い、時にはヘリコプターのようにホバリングをしながら舞っている。
最近、東京でこれほどのトンボの数を見たことがなかったので、ひどく驚いた。
1匹や2匹なら、何度か見たことがある。
自然環境が少ない都会では、仕方がないことだと思っていた。
なので、交通整理をしなくても、衝突せず、停止し、飛び交うトンボの飛行にしばらく目を奪われていた。
自然環境は、そのまま放置していれば、汚染され、破壊され、そして消滅していくしかない。
動植物の絶滅危惧種などは、そうした危機の表れといってもいいだろう。
実際多くの動植物が環境破壊と汚染のために消えていった。
消えていったものは二度と戻らない。
そのことを考えれば、空を飛び交うトンボたちは希望の使者かもしれない。
自然環境を守ろうとする意識があれば、少しずついい方向に変わっていくというメッセージということではないか。
そんなことを考えると、不思議なほど心が穏やかになるのを感じたのである。
そこで、私は立ち止まっていた足を前に向けて散歩を再開した。
(フリーライター・福嶋由紀夫)