黄七福自叙伝12
「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」
第1章 祖国解放までのこと
『マイン・カンフ(我が闘争)』のこと
ナチズムの聖典とされる『マイン・カンフ(我が闘争)』は、ヒトラーが一九二三年、獄中で著作を開始した本で、第一巻は一九二五年に、第二巻は一九二六年に公表された。
聖書と同じくらいの部数が発行されたと言われている。現在のドイツでは、反ナチ法に基づき発禁本のリストの中に入っている。
ヒトラーが自分の生い立ちを振り返り、自らの政策を提言したもので、反ユダヤ主義、東方進出、群衆心理、宣伝の方法などを記し、アーリア民族の人種的優越を強調、東方における生存圏の獲得を説いている。
ドイツの哲学者、ニーチェの著作である『権力への意志』の影響が強く見られ、ニーチェの「力こそがすべて」ということを誤読、もしくは自分なりに解釈し直しているのではないかと指摘されている。
その『マイン・カンフ』の中で、記憶に残った箇所を記してみよう。
◇この世界における最も偉大な革命は、決してペンで導かれたものでない。ペンにはつねに革命を理論的に基礎づけることだけが残されている。だが、宗教的、政治的方法での偉大な歴史的なだれを起した力は、永遠の昔から語られることばの魔力だけだった。おおぜいの民衆はなによりもまず、つねに演説の力のみが土台となっている。
◇宣伝はすべて大衆的であるべきであり、その知的水準は、宣伝が目ざすべきものの中で最低級のものがわかる程度に調整すべきである。それゆえ獲得すべき大衆の人数が多くなればなるほど、純粋の知的高度はますます低くしなければならない。大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわりに忘却力は大きい。この事実からすべて効果的な宣伝 は、重点をうんと制限して、そしてこれをスローガンのように利用し、そのことばによって、目的としたものが最後の一人にまで思いうかべることができるように継続的に行なわれなければならない。
◇国家は目的のための手段である。国家の目的は同種の人間の共同社会を肉体的および精神 的に維持し、助成することにある。この維持ということ自体は、第一に人種的存立を含んでお り、かくしてこの人種の中にまどろんでいるあらゆる諸力を自由に発展させることを許すので ある。民族主義国家の最高の目的は、文化供給者としてより高い人類の美と品位をつくりだす 人種の本源的要素の維持を心がけることである。
◇一民族の力というものはまず第一にその武器にあるのではなく意志にあるということ、および外敵を敗北させる前にまず自国内の敵が絶滅されなければならぬことなどを、どうしても認識しなければならなかったに相違ない。もしそうでなければ、戦いの最初の日に早くも勝利がえられなかったとしたら災でなければならない。敗北の影が内部の敵にまだわずらわされている民族の上をほんのかすめでもするやいなや、その民族の抵抗力はくじかれ、敵は決定的に勝利者となるであろう。
二・二六事件と五・一五事件
第二次大戦が起きる前は、「太平洋波高し」などの見出しが躍る雑誌が氾濫していた。日米戦争の前夜だった。
そうした本には、「今でも遅くないから決起せよ」というタイトルが躍っていたから、興味をそそられ、読んだ。
大川周明の『米英東亜侵略史』とか北一輝の『日本改造法案大綱』とかが人気のある本だったが、国賊であったから、日本の社会でもおおっぴらに傾倒し、愛読する人はいなかった。
北一輝は右翼思想家とされるが、中国の革命運動に参加したりした。右目が義眼で、「片目の魔王」の異名があったという。
後に国家改造運動にかかわり、それを説いた『日本改造法案大綱』という本は、二・二六事件の首謀者である青年将校らに影響を与えたと言われている。
二・二六事件の理論的首謀者とされ、愛弟子の西田税とともに処刑された。
二・二六事件は一九三六年(昭和十一)二月二十六~二十九日に、陸軍皇道派青年将校らが 千四百八十三名の兵を率い、「昭和維新断行」「尊皇討好」を掲げて起こしたクーデター未遂事件で、元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、腐敗が収束すると考えていた。
時の総理大臣は岡田啓介、侍従長は鈴木貫太郎、内大臣は斎藤実、大蔵大臣は高橋是清、陸軍教育総監は渡辺錠太郎らで、このうち斎藤内大臣、高橋蔵相、渡辺教育総監は殺害された。
大川周明も、右翼思想家の一人で、五・一五事件では禁錮五年の有罪判決を受けた。
また、東京裁判でもA級戦犯として起訴されたが、水色のパジャマ姿や下駄履きで出廷したり、前に座っている東条英機の頭を後ろから音がする程はたいたりして、精神異常者と判断され、裁判から除外された。
が、裁判が始まった時から、「すべて茶番なんだ、こんなもの裁判じゃない」と周囲に漏らしていたなどといわれ、偽病説が絶えない。
五・一五事件は一九三二年(昭和七)五月十五日に起きた日本海軍急進派の青年将校を中心とする反乱事件で、突如首相官邸に乱入、当時の護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅内閣総理大臣を殺害した。
当時は、武力より言論で戦うべきだという運動の高まり、「話せば分かる」「問答無用」という言葉が生まれた世相で、一九二九年の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増している最中であった。
一九三一年には石原莞爾率いる関東軍の一部が暴走して満州事変を引き起こした。
解放後、これらの本を読み返してみると、祖国侵略の元凶であったことを知り、愕然とした。
そのころは、ただ、祖国がいかにしたら独立できるかという気持からの、その戦い方を知るための読書だった。
本だけの世界だったから、それによって交友関係が広がるということもなかったが、しかし、 祖国独立を願うグループが身近にあって、勧誘されていたら、加入していたかも知れない。