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黄七福自叙伝「朝総連という組織のこと」/「民団大阪本部が中崎町へ移ったこと」

 

黄七福自叙伝32

「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」

 

第3章 民団という組織のこと

朝総連という組織のこと

一九五五年五月二十四日、東京浅草公会堂において、民戦六全臨時大会が代議員四百六十名と傍聴約六百五十名参加のもとに開催された。

大会議長団には韓徳銖、李季伯、李浩然、尹徳昆が選出され、そして、韓徳銖が祖国戦線から大会におくられた書簡を得意然に朗読した。

議事では、まず李季伯が、

「民戦第十九中委以来対立していた民戦の戦術転換問題にたいする意見は、大会の準備過程で韓徳銖同志の意見に統一された」

と経過報告した。

続いて、民戦中央書記長金忠権が、民戦結成以来の闘争の総括と、在日朝鮮人運動の過去の誤謬について、きびしい自己批判をおこなった。

そして、将来の運動路線が明らかにされ、これを実践するためには、

「民戦を解散して、新たに在日朝鮮人総連合会を組織する」

ことが提議された。

席上、他の中央幹部の自己批判も要求され、そこで議長団の李浩然、民愛青委員長尹相哲、女同中央委員長金恩順らが自己批判をし、陳謝した。

一九五〇年(昭和二十五)、金天海は、北に帰る(密航)に際し、日本共産党中央委員だった地位の後継者を指名する必要に迫られたという。

その後継者は、朴恩哲と韓徳銖の二人に絞られていた。

金天海は、「朴恩哲は、マルクス主義理論の水準も高く人望もあるが、彼は戦前転向している。なによりも、彼の妻が日本人である」という理由で、韓徳銖を指名したと言われている。

このエピソードからも、金天海が民族性についていかに厳しかったかがうかがえる。朝総連組織も、朴恩哲は排斥され、韓徳銖の独裁が確立されていくのである。

 

民団大阪本部が中崎町へ移ったこと

当時、民団大阪本部は浮田町にあるころで、棍棒をもった若い者が周辺を警護していた。民戦の襲撃に備えるためである。そして、中崎町の現在地に本部事務所を移転した。

中崎町の敷地は解放前、住友財閥の別荘地であったが、大阪府興生会に譲渡された。

その後、内鮮協和会が所有、使用することとなり、大阪における皇民化政策の本拠地となっていたものである。

解放後、鄭邦府を会長とする朝鮮国際労働同盟(国労)が結成され、事務所を旧協和会館内に設置するために、大阪府から無償・無期限の使用承諾をうけた。

民団はその後継団体として、時の金聖洙執行部が、旧内鮮協和会館の歴史的背景と国労時代 からの使用権をたてに、時の赤間文三大阪府知事に「不動産賃借権確認請求等に関する申請書」 (一九五二年八月十四日付)を提出すると同時に同年八月末、民団大阪府本部を浮田町から中崎町に強行に移転したのである。

一九四九年九月、朝連解散令によって、朝連本部が旧協和会館から立退きを余儀なくされたため、一階は民団、二階は朝連の後継団体である民戦という形で、僅かな期間ではあるが、同居するという奇形的な状況が現出した。

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