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「語学習得の壁を超えるためには?」その2

 知り合いに、外国語が堪能な友人がいた。

 やはり同じジャーナリストとして活動し、アメリカやヨーロッパの特派員を経験し、日本に帰国してからも、海外の新聞の東京特派員などをしていた時期があった。

(写真はイメージです)

 

時々、彼と話す機会があって、語学が堪能の理由を聞いてみたことがある。

 ちょっと日本人ばなれした発想をする人だったが、しばらく考え込み、「わからない」と言ったのには驚いた。

 「そんなことはないだろう。何か秘訣があるはず」

 といっても、首をひねっている。

 「語学には苦労したことがないんだ。なんとなく習得しちゃうんだよね」

 そんなことをいうので、聞いた私がアホだったことを悟った。

 しばらく彼なりに考えたあげくに、次のようなことを話した。

 それは、語学を学習するというということではなく、その国の言葉を覚えようと思うと、なんだかその国の人の霊が乗り移って来る気がするというのだ。

 このやろー。

 オカルトかよ、と思ってしまったが、彼はかなり真面目だった。

 「僕だって外国語を勉強するのは嫌で苦手だと思う。だけど、外国で仕事をしなければならないので必死になってやっているうちに、いつのまにかその国の人のような気持ちになってくるときがある。それは自分なりに考えると、その国の先祖みたいな人が背後霊になって助けてくれる気がする」

 「だったら、私も外国に行けば、そうなるのかな?」

 「それはどうかな」

 「どうして?」

 「なぜなら、僕の先祖は海外を旅していた人がいる気がするんだ。その国にいた先祖が助けてくれるという感じかな。君には外国の親戚とかいる?」

 私はそんな先祖がいたとは思えない。

 というのも、数度しかない海外体験、韓国、タイ、インド、アメリカに行ったことがあるが、彼がいうような既視感、前にここに住んでいたというような感覚がまったくなかったからだ。

 その時に、彼のルーツみたいなものを聞いたのだが、それによると、彼の先祖は江戸時代かそれ以前に、日本に上陸した宣教師の仲間で、キリシタンの血が流れているというものだった。

 その先祖が迫害を逃れて、関東地方のある過疎の地に隠れ、そこを開拓していって、ひっそりと住んでいたそうだ。

 「だから、僕は海外に行くと、どこか故郷に帰ってきたような安心感を覚えることがある。きっとそうした先祖が語学学習を助けてくれていると思う」

 こう書いていくと、真面目に外国語を必死になっている人には失礼ではないか、謝れと言いたくなる。

 だが、その言葉を聞いて思い出したのは、ある学者の言葉だった。

 その学者とは、ちょっと変わったタイプの学者、哲学者として出発し、途中から古代史の研究に没頭し、様々な学説を発表した学者、梅原猛である。

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現代評論社 撮影者不明 – 現代評論社『現代の眼』第8巻第10号(1967)より, パブリック・ドメイン, リンクによる

 よく知られているように、梅原猛は万葉集の有名な歌人の柿本人麻呂の研究をして、その死は刑死であったこと、それを読み解いたのが、『水底の歌』だった。



 この本を私が読んだとき、衝撃を覚えたことを覚えている。

 何しろ、柿本人麻呂と言えば、「歌聖」と呼ばれるほど、万葉集を代表する歌人で、その生涯が謎に包まれているとはいえまさか犯罪者として処刑されているとは思わなかったからだ。

 もちろん、この説には反論や批判も多いが、梅原猛の本を読むと、柿本人麻呂が現れて自分の生涯の恨みを語っているような印象を受けるものがあった。

 果たしてこの説が真実かどうかは、私にはわからない。

 それだけの知識も何ももっていない。

 だが、歴史の中には隠されていた何か知られていない事実のようなものがあるかもしれない、という思いを抱いたことだけは間違いない。

 ただ私が違和感というか、気になったのは、梅原猛の学者らしからぬ霊能者のような断定するような口調である。

 まるで、自分が柿本人麻呂であるかのように語っているのである。

 そんな講談のような作家のような書き方には、過剰な思い込みと誤解があるような気がしたが、のちにその背景にあるものが本人の言説で理解することができた。

 梅原猛によると、ある人物を研究するということは単に史料を読み込んだり調べたりするだけでは限界があり、霊界にいる本人の霊に乗り移ってもらって、その霊と一体とならなければ本当の学問ができないというようなことを語っているからである。

 「学問=その人の背後霊乗り移り説」、といったらいいだろうか。

 この図式が、どうも先に述べた友人の語学学習における先祖の霊の乗り移り説と共通する気がするのだ。

 語学とは、すなわち単にコミュニケーションをとるための手段・方法だけではなく、言葉の背景にあるその国の人々の生活文化の反映だとすれば、確かに外国語を覚えるに際しては、その国の霊に乗り移ってもらった方が早いだろう。

 だが、それには、もちろん、友人が言うように、その国に先祖に関わる人々がいたかどうかという先天的な条件が必要になる。

 そこまで考えると、幼少時代から引きこもり気味で、コミュニケーション下手で、知人友人が少ない私などは外国語学習下手なのも、そうした理由があるかもしれない。

 納得はできないけれど、確かにそうした一面もある。

 はあ、とため息がつきたい心境だが、語学や学問には年齢が関係ないと思って、少し高齢の自分を慰めている。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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