江戸時代、「信を通わす」朝鮮通信使が計12回来日し、その度に朝鮮ブームが巻き起こっ た。一行は最大500人の規模。福岡藩は相島(現、福岡県新宮町)で接待した。 相島は 新宮港の7.3キロの沖合いに浮かぶ半月形の島(周囲およそ 12 キロ)。
迎接準備のため、城下から多数の藩士や職人が渡った。客館は一時的に作り、戦した(現 在、客館跡地に記念碑が立つ)。朝鮮側の書記、金仁謙は『日東壮遊歌』に、「この島の村 落は極めて小さいが 館所は壮麗で絹の慢幕をはりめぐらし 緋毛氈を敷き 寝房、渡 り廊下、浴室、廊にいたるまで すべて精巧な造りだ」「我らの一日分の食費として銀一万 両がかかるという」と記す。
その時々の天候で事故も発生した。1719(享 保4)年7月、通信使入港の1週間前、大風の 中で受け入れ準備の作業中、藩士・浦水夫ら 61 人が犠牲になった。その一部の墓標は、島の東 側の沿岸に広がる積石塚群(国指定史跡)の一角にある。
通信使の来日は、異文化に接触できる絶好の機会。福岡藩主の世継ぎ、幼少の継高でさえ、 藩士の案内で相島の客館などを見物したことが、申維輸(1719年の製述官)の『海遊録』 に載っている。継高は後に6代目藩主に就任し、通信使を3回接待した。城下の櫛田琴山、 小野玄林ら儒学者、医師らも渡海して筆談している。
その一方で、労働奉仕や荷役運搬に借り出された人たちがいた。1682(天和2)年の通信使迎接で、相島の島民延べ3,850人が約2カ月間を要して2基の波止場を築造した。
江戸時代は鎖国の世ではあったが、朝鮮王朝とは国交関係があり、対馬藩を通じて、外交交渉が行われた。当時、朝鮮王朝は北の守りにも兵力を割かれていた。このため「南方の安定」を目的に、豊臣秀吉軍の侵略戦争で断絶していた国交修復を求める徳川将軍の要請を受け入れた。もちろん、家康の真意を確かめるべく探賊使、松雲大師(四凛堂)を派遣している。
【転載】『二十一世紀の朝鮮通信使』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)