◆贅を尽くした饗応膳
福岡藩は、もてなしの饗応膳として、高官には儀式用の「七五三膳」、実際に食べる引き替え三汁十五菜を出した。帰路には、賄いのため食材を提供。米、味噌、醤油、酒、酢など一日につき一人当たりの分量が決まっていた。使節が好む食べ物は何か。事前に対馬藩が調べて書き写し、各藩に送った。岩国徴古館(山口県岩国市)が所蔵する1711(正徳元) 年の「信使通筋覚書 朝鮮人好物之写」がそれである。肉として牛、鶏、豚、雉などが並ぶが、トップは牛肉。魚介類は 28類をあげ、鯛が1位にランクされている。
福岡藩の饗応料理は、それを踏襲しながら、ナマコの乾物、雉、ウズラ、ウス(鯨の心臓)、 サザエの串刺し、博多そうめんなどが膳に盛られた。食事以外にも、毎日、菓子(干菓子7種、餅菓子3種、煮染13種)が提供された。鶏卵でつくった餅(カステラ)は「最上」と喜ばれた。1万を超える食材は大根1万3000本、茄子1万3900個、蜜柑3万個などである。
また、1719(享保4)年、来日した製述官・申維翰の『海游録』には、次のようにある。
「信使一行に供せらるるものは、一日に、活鶏三百余羽、鶏子(卵)二千余箇にのぼり、百物またこれに準ずる。これがいずれも、民間から聚斂したものではなく、公よりの支弁である。経費の鉅万なること、その国力の富饒なることが知られる」
1764年の第11次の使節が、深夜、相島に入港する手前で舵が折れて、困難を極めた副使船に対して、曳船を派遣しなかったことが朝鮮側からとがめられ、福岡藩は窮地に追い詰められる。もともと曳船を出さなかったのは対馬の裁判が知らせなかったからだ。しかし、すべての責任は福岡藩になすりつけられた。この時、裏で福岡藩は対馬藩の担当に多額の口封じ料を出した。それをもらった対馬藩士は姿を消している。
また、1719 (享保4)年、大風の中、相島に入港しようとしていた6艘の通信使船は難儀を極めた。この大風、荒波で迎護船40隻余りが破損し、浦水夫や藩士など61人が犠牲になっている(その墓は、島の東北の沿岸に広がる積石塚 = 254基=の一角にある)。
◆なぜ福岡に上陸しなかったか
福岡藩の城下に通信使が入っていたならば、町民は沸いたに違いない。通信使行列の華やかさ、地元の使節歓迎の出し物など、お互いに交換した絵巻、書画、文書などがたくさん残ったはずである。しかし、通信使は城下に入らなかった。お互い、それが出来ない事情があった。通信使をもてなす場所は、博多港から十数キロ離れた玄界灘に浮かぶ相島である。この小島がなぜ選ばれたか。3点考えられる。①警備するのが容易である、②江戸への道を急ぐため、③秀吉軍に拉致された朝鮮人が多住する唐人町を避けるため。いずれも、納得できる説ではあるが、定説までにはなっていない。
朝鮮通信使は、日本の政情を探察する任務もあった。高官が書き残した使行録(日本紀行)を見ると明白である。一方、日本側は通信使から朝鮮の文化、中国事情を聞き出すことができた。双方にメリットはあったのであるが、沿道の各藩にとってはどうだったか。
来日の度に朝鮮通信使は朝鮮ブームを巻き起こしたが、西日本の多くの藩主は、朝鮮よりも唐風にひかれて、それに価値を見出し真似る藩主が多かった。参勤交代の度に、京都・ 宇治の萬福寺に立ち寄り、悦に入っている。
最も、通信使の来日を喜んだのは、労役に関わらぬ多くの知識階級や民衆であり、求書求画の波がどこでも途切れなかった。元禄期、尾張徳川家の御畳奉行であった朝日文左衛門重章が著した『鸚鵡籠中記』を見れば、明白である。通信使を一目見ようと、職務を投げ出して走った。幕府は、使節に接する人たちに唱和することは許したが、無用の雑談や筆談は禁じた。「彼の国を尊び、我が国を嘲りなどすることあるは国礼をわかぬというべき」(『徳川実記』)ということも憂慮された。
通信使は、鎖国の世に異文化の風を吹き込む役割を果たし、日本の知識階級、民衆から来日を渇望された外交使節であった。
【転載】『二十一世紀の朝鮮通信使』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)