秀吉軍と朝鮮・明連合軍が、厳寒のなか対峙した蔚山倭城。籠城した加藤清正は、飢餓地獄に苦しむが、援軍が包囲網を切り裂いたため脱出することができた。古くは塩浦と呼ばれた蔚山は日本と関係が深く、対日貿易の拠点(三浦の一つ)があり、日本人が滞在し倭館も存在していた。高麗末から朝鮮王朝初期(日本では室町時代)、倭寇が朝鮮半島沿岸、内陸部まで侵入し、略奪行為を働いた時代である。
対日外交官・李芸(1373~1445、読みは「イイェ」。李藝とも書く)が活躍したのは、この頃である。蔚山に生まれ育ち、8歳のとき、母親を倭寇に拉致される悲劇に遭遇した。その経験が人生を大きく左右し、倭寇対策に取り組む外交官の道を歩み出す。地方の役人から漢城(現ソウル)で活躍する官僚にまで出世したサクセスストーリーの持ち主である。
李芸は73歳で亡くなるが、その間、来日は四十数回、約700人の母国人を連れ戻した。このほか、日本の水車の技法、商店街の仕組み、砲術、船舶の製造法などを朝鮮に伝えた。日本を蔑視せず、社会に役立つものがあれば持ち帰った。70歳を過ぎても、李芸は対馬へ渡海している。驚くばかりの胆力と体力の持ち主であった。
韓国では、始祖を称える末裔たちの結束力が強い。李芸も例外でなく、蔚山市内には石渓書院が整備され、その中に李芸の肖像画を安置した祠堂もある。ここを日本の学生が訪れている。その一部は、李芸の生涯を描いた日韓合作映画『李芸-最初の朝鮮通信使』(監督・乾弘明、82分)でも紹介された。李芸が通信使正使として、足利将軍を訪ねる京都までの歴史紀行。ナビゲーターを韓流スターのユンテウォンが務め、話題を呼んだ。
蔚山に入った通信使一行は、日本への出航拠点である東萊、釜山が近づき、気もそぞろ。国内最終の目的地へ、気を引き締める。朝鮮通信使は江戸時代、日本民衆を沸かせた「韓流の元祖」といえよう。ただし、通信使は、李芸に代表されるように室町時代にも来日していた。
蔚山は、室町の通信使を知る上では最適である。李芸の出身地であるため、史料と史跡がよく整備されている。蔚山博物館で見学した後、李芸ゆかりの史跡、石渓書院を訪ねるコースを勧めたい。
【転載】『二十一世紀の朝鮮通信使 韓国の道をゆく』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)