記事一覧

『二十一世紀の朝鮮通信使 韓国の道をゆく』 (13) 釜山

 釜山港は埋め立てで、往時の姿を大きく変えてしまった。江戸時代、龍頭山(ヨンドサン)公園の周辺に対馬藩士が交代で400人から500人も詰めていた「草梁倭館」があった。ここで、朝鮮側、東萊府の役人と対馬藩が外交交渉を行う一方、貿易実務も行った。その面積は約10万坪。長崎・出島の25倍という広大さ。建物は日本と朝鮮の大工、左官らの共同作業で1678年、3年がかりで完成した。東面560m、西面450m、北面580m、南面750m。
 東西で比べると、東側には館守屋(家)、開市大庁(私貿易会所)、裁判(さいはん、外交交渉官)屋があった。西側は客館としての建物を揃えており、短期の滞在者が多かった。草梁倭館は周囲を塀で囲み、見張り番人もいた。北面には宴席門があり、応接所で開催される定例の儀式に出席するために、使節が用いた。
 倭館に住む藩士らの食事は、東門の前に立つ朝市で購入していた。食事の基本は、1汁3菜。身分の高い役人には、専門の料理人がつくった。対馬藩士と朝鮮人が日常、気軽に交わることを遮った。開放すれば、喧嘩や殺傷沙汰の発生し、藩士のなかには朝鮮の女性と懇ろになり、子どもを孕ませる人士も出たからだ。禁令は石碑に刻まれて、厳しく告げられた(石碑は現在、釜山市立博物館の脇に立つ)。
 倭館では、館守日記が毎日書かれ、1日ごとの出来事を丹念に記録した。そこには窃盗、殺人事件も記されている。人参の密貿易で命を落とす人もおり、女性問題を起こして処罰された記事も出てくる。
 江戸中期、対馬藩の朝鮮方佐役として雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう)、後期には芳洲がつくった韓語司(外交官養成学校)を出た小田幾五郎(おだ・いくごろう)が倭館に勤めた。小田幾五郎は、芳洲と並ぶ朝鮮通で、公文書や日記はもとより、春香伝の写本までつくっている。その文書を対馬・美津島町の大浦家に所蔵されている。


◎永嘉台と子城台

 永嘉台は、慶尚道巡察使の権盼(クォン・バン、1564~1631)が1614年に建てた。釜山鎮城前の浦口に船着き場を築造する際に、汲み上げた土砂でつくった丘のような接岸地であるが、その上に永嘉台を建てた。永嘉という名称は、権盼の故郷・安東の古い地名である永嘉からとったといわれる。 
 その姿について、通信使の絵師・李聖麟(イ・ソンリン)が1748年に描いた釜山港図に詳細に描いている。永嘉台は、日韓の外交史を証言する重要な史跡である。通信使が日本へ船出する前、ここで「海神祭」が行われた。また、通信使一行を迎えるために来た日本の迎聘参判使が初めて足を踏み入れた場所でもある。
 子城台(チャソンデ)は釜山城の出城で、秀吉の朝鮮侵略の折には、まっさきに攻防戦があったところ。小高い丘に城の石垣が残っている。いまでは、地元の人の散策コースといえよう。

 韓国では、サツマイモをコグマという。これは、対馬の孝行芋が訛った言葉である。凶作、不作のとき、サツマイモは役立つ救荒作物である。対馬の農政学者、陶山訥庵(すやま・とつあん)から、そのような話を聞いた原田三郎右衛門は、サツマイモの産地・薩摩に2度潜入して種、生根を仕入れ、対馬への移植に成功する。栽培にも余り手がとられず、食糧難の時に役立つということから、孝行芋と呼んだ。対馬で一般的なこの名称が江戸時代、1764年の朝鮮通信使によって朝鮮に持ち帰られ、コグマといわれる。その橋渡しをしたのが、正使の趙曮(チョウム)だった。
 釜山市・影島(ヨンド)にコグマを籠に背負った男性のブロンズ像が立つ。そばには、馬の像もある。
 この話を、写真家・仁位孝雄さん(長崎市在住)から聞いた。実際、現地を訪れて撮影した写真を見せてもらった。「影島の山頂にあります」。ネットで調べると、いわれるように高台に設置されている。影島のチョネギという場所で栽培されたので、最初はチョネギコグマといわれたそうである。影島区では、サツマイモ歴史公園を設立し、韓国でその発祥の地として国内外にアピールしている。

朝鮮通信使関連史跡

永嘉台=日本に発つ前、無事に航海を終えて帰還できることを、海紙に祈った祭祀の場
海雲台(ヘウンデ)、没雲第(モルンデ)、太宗台(テジョンデ)=釜山滞在中の通信使高官が、無聊を晴らすため遊覧した名勝地
・忠烈祀=秀吉軍と戦って亡くなった軍民を祀る位牌堂
・龍頭山公園一帯=対朝鮮外交の拠点、草梁倭館があった場所。公園の一角に、案内板が立つ。日本の在外公館だった。

資料館&博物館

・朝鮮通信使歴史館=永嘉台に隣接した形で、設置された朝鮮通信使の資料館であり、学習館。ジオラマを駆使しながら、通信使が体感できるように工夫されている
・釜山市立博物館=近世の日朝交流史の展示が充実
・釜山近代博物館=近代の釜山の変遷を、豊富な資料を駆使して描いている。植民統治時代の釜山の街を一部再現した立体展示もよくできている

←前のページはこちら               次のページはこちら

【転載】『二十一世紀の朝鮮通信使 韓国の道をゆく』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)

関連記事

コメントは利用できません。