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『朝鮮ブーム 街道をゆく ~大坂から江戸、日光へ~』 (8)静岡

 

(8) 静岡

見どころ多し、東海地方の通信使

 東海地方には、興津(静岡市)の清見寺に通信使の書画が多く伝わる。第1回目の通信使は、江戸で秀忠と会見し、駿府で隠居していた家康にも会った。江戸までの行き帰り、東海地方にも朝鮮ブームが席巻した。

○寶泰禅寺 (ほうたいぜんじ、宝泰寺) =1381年(永徳元年) 開創。山号を金剛山と号し、臨済宗の寺。後醍醐天皇の皇子無文元選を開山とし、雪峰禅師を中興とする。中興より、妙心寺派となった。江戸時代、朝鮮通信使の正使・副使・従事・上官などの休憩所に充てられ、綺麗第一の名を得た。府中の臨済寺、興津の清見寺とともに駿河三刹と称されている。今川家最後の勇将・岡部正綱の墓、江戸後期の漢学者・山梨稲川と儒医・戸塚柳斎の碑などがある。また、わらべ地蔵の庭としても知られている。わらべ地蔵は、石の彫刻家、藤枝市の杉村孝さんの作品。わらべ地蔵といえば京都の三千院が有名だが、三千院のわらべ地蔵を作ったのも杉村さんである。
○三保の松原 =平安時代から親しまれている三保半島の東側に広がる景勝地である。総延長7km、3万699本の松林が生い茂る海浜と、駿河湾を挟んで望む富士山や伊豆半島の美しい眺めで有名。歌川広重の『六十余州名所図会』「駿河 三保のまつ原」を始めとする浮世絵にも描かれている。また、『万葉集』に「廬原乃 浄見乃埼乃 見穂之浦乃 寛見作 物念毛奈信(廬原=いほはら=の 清見の崎の 三保の浦の ゆたけき見つつ 物思ひもなし)」と詠われて以降、多くの和歌の題材となり、謡曲『羽衣』の舞台にもなっている。
○駿府城 =14世紀、室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏によって、この地には今川館が築かれ、今川領国支配の中心地となっていた。16世紀には甲斐を中心に領国拡大を行っていた武田氏の駿河侵攻により今川氏は駆逐され、城館は失われた。今川領国が武田領国化されると支配拠点のひとつとなるが、武田氏は1582年(天正10年)に織田・徳川勢力により滅亡し、駿河の武田遺領は徳川家康が領有した。江戸時代初期、家康は秀忠に将軍職を譲り、大御所となって江戸から駿府に隠居した。ただし名目上は家康の子の頼宣による駿府藩50万石、ということになっている。1616年(元和2年)に駿府城で家康が没するまでの大御所政治時代、駿府は江戸と並ぶ政治・経済の中心地として大いに繁栄した。

もてなしの心に感謝

「昨日、駿府城をガイドしているEさん(女性)と会いました。 駿府まで足を伸ばしていただきありがとうございます」。2017年3月に1泊2日で「朝鮮通信使を訪ねて-静岡の旅」に出たが、そのとき徳川家康の墓所となっている久能山東照宮で世話になったボランティアガイドのHさん(男性)から電話があった。感謝の言葉を伝えると、「朝鮮通信使について学びたいという気持ちが起きました。アドバイスください」と答える。
 久能山東照宮の五重塔跡に、朝鮮蘇鉄という案内板があり、あたかも朝鮮伝来の蘇鉄のように思いがちであったが、これは江戸に向かう琉球王朝の使節が贈ったもので、駿府城から移植されている。行く先々で通信使にからめて話をすると、Hさんは気になったようである。
 観光名所のある各地には、ボランティアガイドがおり、事前に予約を入れておくともてなしてくれる。ただ、家康が晩年、大御所として過ごした静岡市なのに、通信使の説明が抜け落ちていた。

 秀吉の蛮行後、朝鮮との国交修復と朝鮮通信使派遣を、対馬藩に命じて交渉させ、実現させたのは家康であった。だから、家康と通信使は切っても切れない関係といえる。
 興津の清見寺には通信使の書がたくさん伝わる。ここの説明は、静岡県朝鮮通信使研究会のメンバーがしっかり説明してくれる。なのに、これが県下のガイドに拡がっていない。そんな印象をもった。
 清見寺を案内してくれた地元の元高校教員・北村欽哉さんからは、『富士山と朝鮮通信使行列絵』(静岡県朝鮮通信使研究会発行)と題したカラー刷りの研究紀要をいただいた。通信使高官の宿泊先は寺院が多かった。寺院が日朝交流の拠点となり、彼らから贈られた書がたくさん伝わる。寺院の宗派は法華宗、日蓮宗、浄土真宗、臨済宗などまちまちである。

街道を歩く。東海道・由井は風情あり

 2017年3月、静岡に史跡探訪に出掛けたとき、薩垂(さった)峠に立って、富士山を捉えたかったが、雨の降る日、足元も悪い上、マイクロバスさえ入れない道であると聞き、残念でした。韓流ファン(17人)を引率する手前、無理と判断した。
「薩埵峠を驗ゆ。嶺路からは海を俯瞰し、ときありて風濤が崖谷にあたり、あたかも人を拍つ如くである」
 これは1711年、江戸まで行った朝鮮通信使・製述官、申維翰(シンユハン)の文である。彼の日本使行録『海遊録』に出てくる。この文を現地に立って味わいたかったが、諦めた。
 薩埵峠は由比町と静岡市の境、駿河湾に突き出した山の裾にある。歌川(安藤)広重の東海道五十三次「由井」にも描かれており、昔は東海道の難所だった。
 そこで、興津宿の東隣にある宿、由井まで足を伸ばした。そこには『東海道五十三次』で知られる浮世絵師・安藤広重の美術館がある。これを見ようと思った。由井が近くなると、改めて東海道が海岸に沿って走っていることが分かる。沿道の家は軒続き。戸建てでなく、軒が続いている。瓦葺きの民家は時代を感じさせる。
 由井で観光バスを降りて、安藤広重美術館まで歩いたが、東海道の街道筋には、古い家屋が残っている。美術館は静岡市東海道広重美術館という。この美術館には、5代まで続いた広重のうち、3代までの作品を展示している。江戸後期から明治にいたる時代の変遷が、風景画を通して楽しめるという美術館である。ただ、宿場町・由井にありながら、美術館の建物がありふれた鉄筋。浮世絵といえば、江戸情緒を感じられる民家か商家風の木造建築に作品が展示されているのだろうと思っていたから、違和感があった。
 余談になるが、浮世絵師・葛飾北斎も由井をテーマに、通信使の高官が「清見寺」と筆を振るう姿を描いている。
 東海道五十三次のなかで、静岡県は大きな比重を占める。宿が22あるからだ。東西に長い県で、22ある宿場町の雰囲気を楽しめる。ここを歩きたいと思うが、一部分、つまみぐいする程度の歩きが限度である。

【ユネスコ世界の記憶】

・清見寺朝鮮通信使詩書 (使行年:1643年ほか) / 制作者 : 朴安期ほか /制作年代 :  1643年ほか) / 数量 : 49点 / 所蔵 : 清見寺=静岡県指定文化財

 

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【転載】『朝鮮ブーム 街道をゆく ~大坂から江戸、日光へ~』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)

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