(10) 江戸
国書交換、歓迎儀式に追われ
箱根を越え、小田原を過ぎて酒匂川の船橋を渡り大磯へ。さらに馬入(ばにゅう)川の船橋を渡って藤沢、品川へ。長旅の最終コースへ入った通信使は、出迎えの幕府の先導を受け、江戸市民たちが正装して待ち構える江戸市中へと入って行く。
江戸城で朝鮮通信使は、徳川将軍との国書交換に臨むが、それ以外にも歓迎儀式に追われ、江戸滞在は1カ月にも及んだ。1748(寛延元)年、来日した第10次の通信使の場合、江戸での公式行事は、次のようになる。仲尾宏著『朝鮮通信使と江戸時代の三都』(明石書店)を参考にした。
5月22日 上使問慰 27日 江戸城登城(進見) 晦日 曲馬(馬上才)下見 6月朔日 江戸城登城(饗応) 2日 溜之間御老中若年寄衆 3日 馬上才上覧 4日 御三家方 6日 対馬守招請 7日 御暇(辞見) 8日 国忌 9日 対馬守方曲馬 10日 射芸 13日 発足
当時、江戸城の表門は大手門で、通信使はここから入城した。辛基秀著『朝鮮通信使の旅日記』(PHP新書)によると、当時のにぎわいが目に浮かんでくる。 「大手門の下乗橋右手の濠(ほり)ばたには、朝鮮通信使からの贈り物が、毛氈(もうせん)を敷いた床机(しょうぎ)に並べられている。陶磁器、朝鮮人参、色紙(しきし)など別副(べつぞえ)の品の数々、特に珍重されている虎・豹の皮は一番手前に置かれ、立膝の武士たちに数人の朝鮮人が説明している」
国書を奉じて、江戸城に入城するとき、第一城門のあたりまでは見物人の入場を許していたのか、鮮やかな衣装を着た群衆で埋め尽くされていた。
「第一城門を入ると、見物する男女が簇々として蚕頭の如く、みなその衣は錦繍である」
財政の逼迫で、8代将軍吉宗の享保改革以降、たびたび奢侈禁止令が出されていたが、通信使見物に衣装を着飾って出かける人が絶えなかった。異国情緒あふれる隣国の使節の江戸入りに民衆は心が高鳴って、幕府の禁令もどこ吹く風であった。
通信使が宿泊した浅草界隈
江戸での朝鮮通信使一行の宿館は、1607(慶長12)年から1682(天和2)年までは日本橋馬喰町にあった本誓寺だった。知恩院系の浄土宗寺院で塔頭16院を擁した。しかし、1682年の「お七火事」で類焼してしまった。このため、通信使の宿館は浅草の東本願寺に移り、第11次(1764年)の通信使まで利用された。
東本願寺の境内も広大、壮麗であったことが、1719(享保4)年の使行録からよく分かる。
「旅宇頗壮麗庭前引水作池築士為造山、多植花木架以小橋通人往来」
この1719年、通信使の製述官として来日した申維翰が著した『海遊録』には、浅草に入る道中の様子が、次のように記されている。
見物する男女が填塞充溢して、繍屋を仰ぎ看れば、梁楣間に衆目があつまって一寸の空隙もない。衣の裾には花が漲り、簾幕は日に輝く。大坂(大阪)、京都に比べて、また3倍を加う。およそ板橋を過ぎること三、里門を経ること百余、一つの大門があって、傍に曰く、「金竜山」と。また数百歩ほど進んで使館にいたる。館名は実相寺、一名を本誓寺ともいい、旧称は東本願寺である。前から、我が国の信使は必ずここに館した。今年の春、失火して灰燼に帰したが、数千間を新築した。」
現在、東本願寺には当時の面影はない。本堂のにその面影を偲ぶことができる。通信使の江戸滞在は、1カ月にも及ぶため、幕府は巨額を投じ宿館の修復改修を重ねたといわれる。
朝鮮通信使の高官が残し、いまに伝わる遺墨としては、浅草寺閻魔堂の扁額があげられる。「同殿に掲げられた黒地・楷書・金字で書かれた丈9尺、幅4尺の扁額で、落款に『戊辰流月 朝鮮国真狂 金啓升書』とあって1748年(寛延元)年度に来朝した写字官の筆になるものであることが判明している」(仲尾宏著『朝鮮通信使と江戸時代の三都』明石書店より)
現在、浅草は東京観光の目玉となっており、「金龍山」浅草寺に至る仲見世は週末ともなると、押すな押すなの混雑ぶり。海外からの観光客が目立つ。飲食店、土産屋などが軒を連ねる、浅草寺周辺の伝法院通り、雷門通り一帯は縁日気分で溢れ、どの店も繁盛しているように見えた。浅草は東武伊勢崎線の始発駅。通信使が3度、幕府に請われて「遊覧」のため足を伸ばした日光東照宮には、この路線を利用すると便利である。
【ユネスコ世界の記憶】
・朝鮮国書(使行年:1617年ほか) / 制作者 : 対馬藩作成、朝鮮王朝 / 制作年代 : 1617 年ほか / 数量: 15点 / 所蔵 : 東京国立博物館=重要文化財
【転載】『朝鮮ブーム 街道をゆく ~大坂から江戸、日光へ~』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)