記事一覧

『朝鮮ブーム 街道をゆく ~大坂から江戸、日光へ~』 はじめに

 

はじめに

 玄界灘、瀬戸内海を越えて大坂湾に入った朝鮮通信使一行は、川御座船に乗り換え、淀川を遡上して東本願寺北御堂で宿泊する。その後、また川御座船に乗って京都・淀に至る。ここから陸路で江戸を目指す。家光の要請で始まった日光東照宮詣でにも3回出向いている。 
 陸路、大坂から江戸までの道で、通信使を驚かせたのは三都(大坂、京都、江戸)と名古屋の賑わいであった。文の国を自負する通信使高官も、これを無視できなかった。
 要は、町人文化があるかどうかである。
 朝鮮も日本も儒教思想を基盤に、身分制を敷いていた。朝鮮では常民階級の町人は貴族の両班に抑えられ、独自の文化を花咲かせられなかった。しかし、日本は違った。元禄文化は町人階級が作り出した文化で、豪商ら財を成した町人の羽振りのよさに、朝鮮通信使高官も驚いた。大坂には町人学者がいた。名前をあげると、富永仲基(とみなが・なかもと)、山片蟠桃(やまがた・ばんとう)、木村兼葭堂(きむら・けんかどう)など。奇才揃いである。
 これには、朝鮮通信使の高官も刮目した。商家を継ぎながら、学問研鑽の心を失わず、盛名をはすまでになるのだから。とりわけ、木村兼葭堂(1736~1802)は才智走った人で、学者であり、画家であり、蔵書家、コレクターであった。
 兼葭堂と交遊を交わした通信使は、「商売人が本を読む、儒学を学ぶ? そんなことあり得ない」と驚愕したはず。日本には、そのような商人兼学者がいたのである。
 地方には、備中松山藩(現、岡山県高梁市)に藩の財政ピンチを救った山田方谷がいるが、彼は菜種油製造・販売を家業とする農商の家に生まれた。人の才能は、一筋縄ではくくれない。
 江戸時代の面白さは、奇才・変人がいることである。
 例えば、日記を26年8カ月にわたり書き続けた男もいる。冊数にして37冊。何とも膨大な日記である。書いた男は元禄時代を生きた尾張徳川家の家臣、朝日重章(文左衛門)である。 通信使についての記録もある御畳奉行の日記『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』で、今日知られている。身辺雑記、醜聞、人殺し、心中など当時の風潮が書き記されている。下級武士がここまで書いたのである。

 町人文化を象徴するのが老舗である。朝鮮では、両班を頂点にした階級社会は、町人を含む常民階級を蔑視した。商人が誇りを持てない社会だった。それに比べ、日本では老舗が多く、商人が豊かな財力を誇った江戸時代、町人文化の花を咲かせた。対照的な両国だが、面白いことに風俗画が同じころに隆盛する。
 日本・江戸期の町人文化に似たものが、朝鮮にもあるにはある。閭巷文化である。中人(チュンイン)という専門職に携わる階級を中心にした文化だった。閭巷とは「りょこう」(韓国語では「ヨファン」)と読み、まちなか、民間という意味である。画家とした申潤福(シンユンボク、1758~?)、金弘道(キムホンド、1745~1806)などが活躍した。
『雙剣対舞』という申潤福の風俗画(国宝第135号)には、伝統的な画風を抜け出した、独自の世界が広がる。風俗図画帖の30余点の中の一つで、二人で舞う剣舞を中心に、下に楽士、上に鑑賞する士大夫、妓生(キーセン)などが描かれている。従来の図画署(トファソン)にあ
るような既成の価値観を脱ぎ捨てた斬新さが漂う。自由な構成と華麗な色使いは、朝鮮王朝が国教とした儒教の枠から逸脱している。
 社会的混乱が生じる正祖(チョンジョ、第22代国王)、純祖(スンジョ、第23代国王)の時期は、封建社会が解体される大きな過渡期で、中人階級が新文化を形成するに至る。彼らがつくり出した閭巷文化は、風俗画をはじめパンソリ、坊刻本小説(一種の大衆文学)などを流行らせた。
 同じ時期、日本では町人文化が形成され、浮世絵が流行した。侍文化の厳格さとは違って、町人文化は人間の欲望が噴き出たような遊興的要素を前面に押し出した。浮世絵は、町人文化の象徴ともいえる遊郭などの風俗を描き、批判精神を絵画に盛り込んでいく。あたかも、近代の到来を予兆するかのような存在になる。西洋に影響を与えたことでも、浮世絵の価値が、いかに高かったか知れる。

 日本に行った通信使一行の報告や、彼らが持ち帰った書籍を、最も喜んだのは実学者である。儒教を学んだ両班階級のなかには、社会貢献を志す実学者が生まれた。彼らは、通信使を通して商工業の発達した日本を無視しない一派であった。いいものは取り入れようと活動を進め、朝鮮社会を変えていった。
 大坂から江戸を往復する中、通信使は驚きをもって三都と名古屋の賑わいを見つめ、町人学者らと交流を重ねて、刺激を受けた。秀吉の蛮行でイメージづけられた「武の国」日本が、朝鮮に劣らない、いや朝鮮を上回る文化をもっていることを認識するに至る。通信使が200年間に12回来日した意義は、両国の社会の実態を伝え、文化交流をつないだ紐帯になったことである。

 

←前のページはこちら                次のページはこちら

【転載】『朝鮮ブーム 街道をゆく ~大坂から江戸、日光へ~』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)

関連記事

コメントは利用できません。