(4) 大垣
通信使行列を追っかけた商人も
垂井宿追分で中山道と別れ、美濃路に入る。熱海の宮宿で東海道に合流するが、その間の距離約60キロ、7宿が点在する。
美濃路に入った通信使は、今須(関ヶ原町)で昼食をとり、大垣で宿泊した。大垣でも、沿道には異国の使節を見ようと民衆が詰めかけた。その熱狂ぶりは竹島町の朝鮮山車に刻まれている。八幡宮の祭礼に繰り出される各町の山車のなかでも、竹島町のものは目を引いた。
清道旗を先頭に楽隊、山車上に載った「大将官」人形、その脇に小姓、さらに「朝鮮王 竹嶋町」の旗が続く。当時、大垣商人の大黒屋河合治兵衛の先祖が、通信使行列を名古屋まで追っかけスケッチし、それをもとに京都・西陣の業者が朝鮮服をつくったといわれる。異国の使節に似せた行列部隊は、こういった熱狂的なファンがいてこそ可能だった。
当時の民衆の興奮が伝わってくる竹島町の朝鮮山車の遺品は、現在大垣市郷土館に陳列されている。
通信使がもたらす朝鮮ブームは、拾六村(現、十六町)の「豊年踊り」にも影響を与えた。秋まつり、通信使行列を模倣した行列が繰り出されるが、これが「豊年踊り」である。衣裳は素朴で、ススキの穂や切り紙などを使って、巧みに日常着に変化をつけ、異国情緒をつくりだす演出をしている。
大垣で、通信使の高官が止まった全昌寺。初代藩主戸田氏鉄公が大垣城入封後に、寺域をさずかり、出来た寺である。ここにも通信使に面会を求める人が押し掛けた。その一人に、医師の北尾春麗がいる。漢詩文の交換はもとより、通信使に随行した宮廷の医官と長時間にわたり、韓方、その治療方法などについて筆談をかわした。そのやり取りを、春風は『桑韓医談』にまとめた。
大垣を出発した通信使は起(おこし、現・尾西市)で昼食をとり、名古屋へと向かう。美濃路で難所といえる場所は、揖斐川、長良川、木曽川の木曽三川である。参勤交代で江戸へ向かう西国の大名行列は、渡し舟を利用したが、隣国の外交使節、通信使は異なった。特別に舟橋をつくった。舟をつないで、その上に板を張り渡して、さらに砂をまく。まるで陸上を行くような演出をした。その堅固な舟橋に通信使も感嘆の声をあげている。
大垣市で2007年、2015年の2回、朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流大会が開かれた。2007年に参加したが、このときこのフィールドワークとして、訪れた岐阜市歴史博物館で別府細工を見て、通信使がここにも刻まれているのかと驚いた。別府細工とは蠟型鋳物だが、その一つ燭台に旗をもつ通信使が細工されている。特別に展示された、通信使が描かれた洛中洛外図も見る機会を得た。
このとき通信使の足跡を訪ねるコースとして、岐阜市歴史博物館→一宮市尾西民俗資料館→養老町・福源寺→中山道・醒井宿→摺針峠と回った。
【転載】『朝鮮ブーム 街道をゆく ~大坂から江戸、日光へ~』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)