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お盆で亡き父母を想う

 お盆に家に帰って墓参りをする。

 日本の伝統的な風景だが、今は少し様変わりしているかもしれない。

 むしろ帰郷ということを名目にして、家族連れでそのあたりを観光したりするレジャーのような面もあるような気がする。

 それが一概に悪いとは思わない。

 墓参りとは先祖供養と同時に、そこの自然や生きている人々の交流の場でもあるからである。

 故郷に墓があっても、そこに同じ親族が集う場がないと、寂しいだけではなく、そこで過ごした思い出を語り合う楽しみがない。

 かつて幼少時代は、お盆での帰省はそのような一族郎党が集まって、墓参りをすませると、会食や亡き人々との思い出話で宴会が始まる。

 その場では、子供だった私は見知らぬ親類の中にあって、借りて来た猫のように大人しくしていたことを覚えている。

 確かそこでいとこと話したり、遊んだりした記憶がおぼろげにあるのだが、今では遠景のように薄れてしまっている。

 それだけ子供にとっては、お盆の墓参りという儀式の意味や内容があまり身近なものとは感じられなかったからだろう。

 ただ、そんな中よく覚えているのは、広い庭に植えられていたひょうたんの木のこと。

 枝からぶら下がったひょうたんだったと思うが、それが不思議なほど奇妙な風景に思えてじっと見つめたことを記憶している。

 そのような私の過去のお盆の光景だが、大学入学以来、あまり故郷へ帰ることが無くなってしまった。

 帰郷したのは、両親がそれぞれ亡くなって葬式に参席するためだった。

 父は生前からお墓を建てていたので、それを父とともに見たことがあるが、「ここに眠るんだ」と誇らしげに言っていた父のことを思い出す。

 まだ若かった私は、こんな狭い場所に葬られてしまうのか、と考えていたことを記憶している。

 その父も、母の後を追ってすぐに亡くなってしまった。

 その場にいなかったので、何とも言えないが、母が霊界から呼んだという話を親類から聞いた。

 真夜中、突然、叫び声を上げて亡くなったということだった……。

 私はそんな両親とは離れ離れの生活が長かったので、親不孝な子供だったと思う。

 激しい性格の一面をもっていた兄や弟に比べて手がかからない子だったという話を母から聞いたことがあるが、それは私が情が薄い、薄情な性格だったからではないか、と今になって思うことがある。

 そんな私だから、本当は毎年墓参りに行かなければならないのだが、事情があったりして行けないことが多い。

 やはり基本的に性格が薄情なのだろうと思う。

 そこで、私は自分のできる供養と思って、父と母に手向けるための俳句や詩を作って偲ぶことにして同人誌などに発表した。

 これは私なりに墓参り、親孝行のつもりであったが、詩歌によって紙の墓碑を立てることでもあった。

 次に紹介するのは、母の死を詠んだ俳句「冬の空 母死にたまふ」の一連の句である。

母は死に骨を拾へり冬の空
冬の空落葉しきり母は亡き
山裾に車の集へば風の冷たし
遠き海遠き空に母逝きたまふ
死の顔も化粧せり母死にたまふ
冬空や棺の軽さにたたら踏む
閉ざされし家のひつそりとして父老ひけり
ぎんなんの匂ひ立つ道朝寒し
枯れ葉ひとつひたつ拾ひ面影とす
空に風に思想刻みて冬木立
母の時間九十三年いまはどこに
冬海や貝の悲しみ聴ゐてゐる
真新しき墓標や寒々と立つてゐる
冬の寺だれもゐない誰もゐない
線香のしみつく上着そつと掛けて
影うすき薔薇は苦きつぶやきする
生まれ死す身に海空の関わりなし
冬の午後珈琲のラベル剝がしをり
匙のうへ悲しみの粒こぼれたり
カラカラと鳴り出づる骨崩れゆく

(2017年3月)

  私はこれらの句を詠むことで、母へのこれまでの親不孝を詫びる気持ちであったが、今ではその気持ちがよくわからなくなっている。

 母は最晩年、認知症になって、私のことを不思議そうに見て、「本当にわたしがあんたを生んだのかねえ?」とつぶやいていたことを思い出す。

 母のあまりにも純真なまなざしに私は絶句して、一言も発せなかった。

 私はやはり親不孝な子だったかもしれない。


 「お盆で亡き父母を想う」その2

 母が亡くなってからしばらくして父も亡くなられた。

 父のことを思うと、なぜか不思議な気持ちになる。

 というのは、父は戦争を体験した世代で、生きるエネルギー満ちた人で、常に体を動かしていないといけない人だったからだ。

 なにしろ青物市場で競り人をやり、その後は車を使って商売をしたり、野菜や果物の卸などの仕事をしていた。

 80歳を過ぎても、元気いっぱいで働いていたので、職場の人にはいくぶんか迷惑がられていたのかもしれない。

 80歳を超えても第一線で肉体を使って仕事をするので、若い世代からは「化け物」と呼ばれていると述懐したこともある。

 誉め言葉のように思えるが、実際にはあまり高齢な父に対していくぶんか敬遠したい気持ちもあったかもしれない。

 今私自身も父の年齢に近い高齢者となって、若者が「化け物」といいたい、その気持ちもわからないではない。

 やはり世代交代ということは必要で、若者と同じ第一線で同じように働くということは、いい面と悪い面があるだろうと思う。

 いい面は伝統技術や文化の継承がスムーズにゆくことであり、先人の知恵に学ぶことができる点である。

 悪い面としては、新しい発想などを自分の経験から否定的に見やすいことであり、それが健全な発展を阻害する要素にもなりやすい。

 そのあたりの問題もあるけれど、おおむね世代交代ということは自然に流れであることは間違いない。

 ただその継承においては、ただ交代するのではなく、老いも若きも、同じ家族や親族のように敬意をもち、助け合うという精神が背景になければならないだろう。

 川の水が濁らないのも、水が絶えず流れるからで、そこに新陳代謝があり、世代交代がある。

 そうした自然の摂理には、意味があってそうなるのであるから、無理にせき止めたりせずに自然に任せるのがいいのではないか。

 ところで、母の追悼句が割合はやく詠むことができたが、父の死後、父への追悼の思いを詩歌の形にすることには時間がかかった。

 それだけ母子関係と父子関係の違い、情においての距離があるからかもしれない。

 しかし、私は母の追悼の句と同じように父への思いを紙の墓碑として残したいと思っていた。

 それで、今年になって「母の日」に比べてあまり目立たない「父の日」に父を追悼する次のような詩を書いてみた。

◎詩「父の日に寄せて」

明日は「父の日」
あなたと別れたとき
あなたは 骨となって
白い焚き木のように
崩れ落ちた
風が通り過ぎれば
後には何もない
その
風のように
あなたは去っていかれた
父よ
あなたは どこに行かれたのですか
そう呼びかけても答えはなく
私はむなしい風を
感じるだけ
空は雲が浮かんでいて
ジェット機のように流れていき
いつか地球の裏側へ回り
海に落ちて
海流の船に乗り
風となって
ふたたび還って来る
父よ
風があなたですか
そう呼びかけても
何も答えがない
ふと兄の言葉を思い出す
「おれと弟はおやじに似ていなかったが、お前はそっくりだ」
鏡を見れば
皴と白髪と禿げ上がった頭
ああ
ここにいた
父がここにいる
父は血肉となって
私の中に生きている
明日は「父の日」
父に言えなかった
「ありがとう」を
明日こそ
心の中で言おう

(フリーライター・福嶋由紀夫)

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