
こう小説に書いているのは、明治時代の文豪・夏目漱石の『草枕』だ。
初めてこの本を読んだときは、よくわからなかったことを覚えている。
独特の美文調もあるにはあるが、江戸時代のようにわかりにくいものではない。
ただ、この主人公が何を考え、何をしようとしているのか、そのあたりがぼんやりとしか浮かんでこないのだ。
よく言われるのは、明治時代の知識階級の財産に余裕のある層の高等遊民の知的な遊戯のような印象だった。
私はもともと美文というものが苦手というか、誇張された表現には辟易させられていたから、なじめないこともあったろう。
この『草枕』は、漱石の作品の中でも、初期のややロマンティックな幻想的な作風をただよわせているので、この作品を入口にして漱石の世界に入ると、その後のシリアスな社会問題や家庭問題を扱ったものに戸惑いを覚えるかもしれない。
ただ、そうであっても、文章のリズムや美文が醸し出す一種の古い美酒に酔うようなものがあるので、そうした文章の格調高い味わいをかみしめるのには最適な作品でもある。
文学的な感興を覚えるのにはいいが、ここから自然主義的な私的な事実を抽出することも、「人生いかに生きるべきか」といった教訓を得ようとすれば、混乱するしかないだろう。
とはいえ、そうしたことを差し引けば、見事な作品、芸術品のグラスのような質感と美的造形にあふれていることには間違いない。
私が『草枕』というとすぐに浮かんでくるのは、冒頭の名文
「山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」
今再読しても、調子がいいし、するすると頭に入ってくる。
講談の名調子を聞いているような快さ、快感がある。
美文というのは内容そのものよりも、知的にちりばめられた文章のもつ音楽性、リズムがそのまま脳に入ってくる印象である。
もちろん、この名調子は、漱石自身がそう感じていることもあるが、それ以上に、多くの人々が感じていることを的確に言い当てているといっていいだろう。
だからこそ名文として共感を呼ぶのである。
社会不適格者でなくても、人間社会における儀礼や倫理、道徳、決まり事、習慣などは、時に窮屈で感じられるのはだれしも感じていることだ。
また、人間関係の情にばかり肩入れをしていると、いつのまにか自分の意に染まないことにも巻き込まれしまう可能性がある。
だからこそ「人の世は住みにくい」のだ。
明治時代の漱石がそう感じていたとすれば、現代社会などはもっと窮屈で住みにくいのではないだろうか。
なぜなら、現代社会はクレーム社会だからである。
日々生活していると、いつの間にか知らないうちに、マスメディアの報道などから、聞きなれない言葉が飛び交っていることに気づかされる。

「セクハラ」
「パワハラ」
などならばわかるが、「アカハラ」「モラハラ」「マタハラ」「リモハラ」などとなっていくと解説が必要となる。
「アカハラ」は学校や大学などで教授などから受けるハラスメント(アカデミーハラスメント)、「モラハラ」はモラルハラスメント、「マタハラ」はマタニティーハラスメント、「リモハラ」はリモートハラスメントなどの意味になるが、これでもわかりやすい方のもので、氷山の一角に過ぎない。
要するに、なんでも自分が受ける被害に該当するハラスメントは無数に存在していることになる。
実際、ネットで検索していたら、一般社団法人として「日本ハラスメント協会」というものが存在していることを知って驚いたほど。
こうしたハラスメント問題は、社会がそれだけ健全ではなく、さまざまな軋みや問題を孕んでいるということだろうと思う。
まさしく、漱石が嘆いたように、「とかくこの世はすみにくい」ことは間違いない。
ではどうしたらいいのか。
少しでも人の気持ちを傷つけたら、ハラスメントになる可能性があるならば、むしろ口を開かずに沈黙している方がいいかもしれない。
しかし、そうした社会も窮屈な社会で、自由さを感じられないだろう。
ならば、どうするのか。
漱石は、住みにくさを悟ったときに、詩や芸術が生まれると『草枕』で続けているが、確かに文学や芸術というものは、住みやすい社会からは生まれないことは確かである。
生活や人間関係に悩まない快適なものだったら、そこから新しい芸術が生まれる必要がない。
芸術衝動というのは、やはりその背景に社会や自分自身が置かれた状況に対する違和感や不満などが、どうしようもなくなって、そこから音楽や絵や文学などの作品に結実するといっていい。
芸術家が社会に満足し、幸福であるならば、社会に対して、何かの表現を打ち出す衝動は生まれないのである。
歌が人々の心をとらえるのも、歌を通して悲しみや苦しみを吐き出し、それによって自分の精神の中に渦巻くさまざまな怨念や感情を整理してくれる代替作用があるからだ。
自分の心を浄化する精神作用、それは何も変えがたい喜びと幸福感をもたらしてくれる。
古代中国には、「士は己を知る者にために死ぬことができる」といった故事があった記憶があるが、そのような共感を通して、みずからの救済と昇華を覚えるから、歌に熱狂するのである。
それはまさに巫女が神と人をつなぐ芸能家であり芸術家であることと通じる。芸能や芸術は神に至る心の懸け橋でもあるのだ。
(フリーライター・福嶋由紀夫)