春は何処から来るのか。
といったら、山の向こうから来るという童謡を思い出す。
寒い冬がいつのまにか終わって、春の季節が気づかないうちにやって来る。
というのは、詩的な感覚からだが、基本的には野山の木々や草が灰色の大地から、緑の芽をのぞかせ、それが野原をおおうようになってからだろう。
そのころになると、風も少しばかり暖かくなり、水も少しずつ温度を上げていく。
そんな自然の推移の中で、梅の花が咲き、そして、春爛漫の桜の花があたり一面を覆い尽くす。
それが感覚的な春の到来を告げる自然の姿だろうと思う。
だが、私の場合、そうした自然の美しい劇場が開演する前に、春の到来を知ることになることが多い。
鼻の奥がかゆくなりムズムズして、くしゃみが出て止まらなくなる。
そう、花粉症である。
春はスギ花粉が飛び散り、知りたくもないのに、強制的に花粉症によって春の到来を知らされるのである。
もちろん、私だってそんなことから春の到来を知りたくはない。
だが、春とともに花粉症は憂鬱な使者として必ずやってくる。
くしゃみが止まらず、ティッシュペーパーが必需品として身近にないと不安になってしまう。
何しろ、鼻をかんでもかんでも、鼻水が止まらない。
こんなに大量の水分をどこに貯め込んでいたのか、と思うほどである。
詩的な要素も未来への希望もない。
ただただ憂鬱な時間が続く。
これが自然の芽吹きや開花だったらどんなに良いか。
毎年そう思うのだが、快適な春を迎えたことはほとんどない。
いつから花粉症になったのか、と振り返ってみても、あまり覚えていない。
物心がついたころから花粉症だった気がする。
とはいえ、これはやや説明がいるかもしれない。
というのは、もともと私は幼少時から蓄膿症を患っていて、鼻の空気の通りが悪かったからである。
その意味では、花粉症と蓄膿症が重なっていて、どうも区別がつかないからである。
おそらく、蓄膿症を引きずっていたときに、花粉症も発症したのだろう。
蓄膿症にしても、花粉症にしても呼吸するのが難しくなる。
時には、眠っているときに口がふさがれたように感じて飛び起きることもある。
そうなると、さすがに呼吸するのが苦しくなって、一度中学生ぐらいのときに、手術したことを思い出す。
その時は麻酔をして手術するのだが、同じ病院の同世代の患者仲間は、麻酔をしていても、意識が覚醒していて奇妙な気持ちだったという。
メスか何かで切開するその一部始終が覚醒している知覚の一部で感じているのだから、それは少しばかり異常な時間だったろうと推測する。
ところが、私の場合は、体質のでいか、麻酔をかけられた後、意識が無くなって睡眠状態になり、眼が覚めたときには既に手術は終わっていた。
手術されたのが本当にあったのか、と思うほど何の変化もない。
自覚症状もない。
それで、手術中、意識が一部覚めていて、最初から最後まで、自分の鼻をいじられていたという自覚がある蓄膿症仲間は、ひどく私をうらやましがった。
自分も睡眠中のように意識が眠っている間に、手術が終わってほしいと思うらしい。
私は何とも言えず、ただ黙っているしかなかった。
ただ、うらやましいというのはどうだろうと思ったのは確かである。
なぜなら、私は自覚症状がない間に手術が終わったことに当惑した思いで、この自分が自覚できない時間というのは何だろうと考えていた。
睡眠中の自覚症状がない時間と麻酔による意識的な一種の睡眠は、これはちよっと違うのではないかと思った。
それはまるで、一種の「死」ではないか、とさえ思ったのである。
睡眠のときには、意識が働いているので、脳内で夢を見たり、どこか細胞が活性化していて活動していたという印象がある。
ところが、麻酔状態にある眠りはそうではない気がする。
まるでその時間が黒く塗りつぶされたかのように自覚できない時間であるという感覚がある。
どこか切り取られたような時間、そこだけが空白になっているような気さえするのである。
そうした不連続な時間があるために、私は手術によって蓄膿症が完治したという実感をなかなかもてなかった。
そんなことがあるからだろうか、いつのまにか蓄膿症が再発して、元の木阿弥に戻ってしまった。
だから春の花粉症の季節は憂鬱な時期である。
ささやかな体験であるけれども、何か割り切れない思いを引きずっているので、春の季節の到来で、この過去の体験を思い出すのかもしれない。
そういえば、春という季節は、再生や新生という未来への希望が芽吹く季節でもあるが、その反面、生と死という概念を対比的に浮かび上がらせる。
作家の梶井基次郎の作品に、確か桜の木の下には死体が埋まっているというイメージを書いたものがあったのをおぼろげながら思い出す。
生命の賛歌である桜の満開の姿は、逆に死によって保証されたものであるという、イリュージョンは、いかにも妖しげで美しい桜のイメージと重なる。
そこに、春のもつプラスの面とマイナスの面の両面性が浮かび上がるといっていいかもしれない。
生命の春は、また冬の死によって生まれるからだ。
そんなことを考えながら、鼻をかみつつ、机に向かっていると、自分が年老いた一人の人間であり、生命あふれる春の季節から少しばかり外れているという気持ちになっていることに気づく。
だが、そうした私でも、春はやはり嬉しい季節であることは間違いない。
芽吹きつつある木々の緑が、命の喜びを歌い呼びかけて来るのを感じる。
(フリーライター・福嶋由紀夫)