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まんじゅう怖いと電話が怖い

 落語に「まんじゅう怖い」という演目がある。

 そんなに落語を聞いているわけではないが、この落語は今でもよく覚えている。

 というのは、「まんじゅうが怖い」と言いながら、実は…違うという落ちになっているからである。

 子供こころに「まんじゅうが怖い」なんて不思議だなあ、と思いながらきいていた記憶がある。

 おそらく不思議に思ったことと話の展開の面白さに惹かれて、最後にどんでん返しがあって、「なーんだ」と少しばかり残念だったことが今でも鮮やかに印象付けられている。

 結論がどうのこうのというよりも、本当にそうした人間がこの世に存在していたら面白いだろうなあ、と空想好きな私は思っていたのである。

 「まんじゅう怖い」は落語の話だが、実は私には怖いものがあった。

 それは電話が怖いというものだった。

 電話が怖いなら、ライターのような仕事をしているのはおかしいだろうと思うだろう。

 電話は怖い。

 だが、インタビュー相手にアポイントメントは電話でとらなければならぬ。

 この当たり前のことが怖いのであり、私は打ち明けてしまうが、相手に電話するときには、その数日前から心音が高まり、息があえぎ、いつかけるか、相手はどう反応するか、今の時間は迷惑ではないか、寝ているのではないか、食事をしているのではないか、などとかける前から妄想と不安で、心が落ち着かなかったことを覚えている。

 この背景には、私の引きこもり的な性格、人と接触するだけで(会ったりすることだけで)、心臓がどきどきしてしまうストレス体質があるのだろうと思う。

 こんな風に書いても、そうした心理を理解できない人はいるだろう。

 なぜこんな電話をかけて話すことができないのか。

 そう不思議に感じるかもしれない。

 だが、実際そうなのだ。

 ある新聞媒体で1週間に一度、本の著者にインタビューする仕事を担当していたときは、それこそ1週間前から強迫観念とストレス、様々な妄想で押しつぶされそうになった。

 それでも、数年間、なんとかインタビューを続けられたのは、これをやらないと生活できないという思いと、一度電話をかければ、その間だけは強迫観念やストレスを感じなかったからである。

 終わった後には、それこそ1時間のインタビューでも1日仕事をしていたような精神的疲労でぐったりとしたものである。

 ところで、こうした私の電話が怖い症候群は、私だけの症状だと思っていたが、最近、新書版の本で、それこそストレートに『電話恐怖症』(大野萌子著、朝日新書)という本を見つけてわが意を得たりと膝を打ちたい気持ちになったからである。

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 著者は、産業カウンセラーで、会社のカウンセラーとして多くのクライアントの相談に乗っている。

 そのカウンセリングで、若い世代の相談を受けているうちに、あるいは人事部の担当者の話をきいているうちに、若い人の中には電話を受けたくない、電話をかけたくない、電話が怖いという症例が多数あることに気づいた。

 人事担当者によれば、中には電話をしたくないから会社を辞めてしまう事例もあるというから驚きである。

 社会人となっても、電話というツールを使ってコミュニケーションができない世代が存在するというのに著者は驚き、それを調べてみたという。

 いずれにしても、こうした電話恐怖症は私だけの病気ではなかったことに少しばかり安堵した。

 そのうえ、この電話恐怖症は何も日本だけでのものではなく、アメリカやイギリスなどの先進国、お隣の韓国でもそうした事例があるとも述べている。

 こうなると、電話というツールが問題ではなく、社会の中で生きていく上に絶対に必要なコミュケーションができない、という精神的な病理がなぜ起こっているのか、という問題になってくる。

 私も、実は何十年もかかって、電話が怖い病を少しばかり克服できるようになったので、これを書くことができるようになったのである。

 そうでなければ、こんな恥ずかしいことを書くことなどできないし、したくない。

 そうした感覚からすると、こうした電話が怖い病は個人的な問題というよりも、文明社会における人間の発達や成長にかかわる症状だと考えるほかはないだろうと思う。

 まず私の場合だが、背景にあるのは引きこもりという精神的な問題(といっても、家に閉じこもる引きこもりではなく、最低限人に会わないようにし、会話もせず、集団の中でも我関せず、置物のようにしている状態)から来ている。

 人に会うのが恐ろしいし、話すこともできない、人見知り状態で生活しかできないということもある。

 そうした社会の中でその枠組みから外れた存在、それが私のコミュケーション不全状態(電話が怖い)ということにつながっていたのだろう。

 ただ私の症例と現在の若者世代で起こっている電話恐怖症は、やや違っているようで、著者の分析によれば、スマホなどの普及によって人と会話することをメールやラインで済ませていること、対面であってもスマホ越しでメールで会話している状態が原因の一つではないかと指摘している。

 肉声で会話をすることは、ともすれば感情が高ぶり、時には喧嘩になってしまうことがある。

 だが、メールだと生身ではない接触であるために、そうした感情の起伏を自分も相手にも感じないでやりとりできる。

 そうしたスマホ会話によって、生身で会話をする電話への恐怖症になったのではないか、とも分析している。

 なるほどなあ、と思って読んだが、いずれにしても、便利な道具であるスマホがかえって人間の基本的なコミュニケーション能力を減退させるというのは、確かにありうることだと思っている。

 人間らしい生活は、寺山修司の「本を捨てて町に出よう」ではないが、スマホ依存ではなく、スマホを捨てて(比ゆ的な意味)自分の言葉で相手とコミュニケーションすることなのだろうと考えている。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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