風に乗って花の香が漂ってくる。
なんだろうと思っていると、地面に橙色の小さな粒が無数散らばっている。
香りも濃厚な柑橘系の匂い。
キンモクセイだった。
キンモクセイは漢字で、「金木犀」と書く。
花の小柄で金粉のようなイメージからすると、ごつい印象の「犀」(動物のサイ)が使われているのは少しばかり違和感を覚えるが、どうやら中国では樹皮がサイの足に似ていることからつけられたとウィキペディアにはある。
といっても、サイの足を実際にまじまじと見たわけではないので、そうなのか、と思っているだけだ。
もう一つ、サイは中国にいるのか、という素朴な疑問もある。
現在では、インドやアフリカなどの限られた地域にしか存在しない(という私の認識だが、実際はどうなのかわからない)。
サイを「犀」の字を当てたのは、その名前をつけられるだけの背景があったのだろう。
ウィキによれば、10万年前には中国周辺に住んでいたという記述があるが、それはありうることだけれど(何しろ南方に住んでいたと思われるマンモスの骨がシベリアなどに発見されたのだから)、化石が発見された所は住んでいたといっても間違いではない。
ただ、漢字が中国で使われ始めた古代にも、「犀」が存在していたとなると、どうだろうか。
その辺のところは想像になるのだが、中国の漢方では、サイの角を薬として珍重していたから、東南アジアやインドからサイの角を漢方薬の材料として輸入していたことは考えられる。
その場合、角だけが輸入されたというのは考えにくいので、サイ自身も珍しい動物として生きたまま中国に運ばれたこともあるかもしれない。
古い時代には、珍しい動物は、それだけで貴重なものだったから、王侯貴族の蒐集
の一つだったこともあるだろう。
島国の日本でさえ、江戸時代にはるばるインドから象を輸入して見世物にしたという記録があるから、それは突飛な話ではない。
中国の古代の人々は、サイを見て、その威容と堂々とした姿に、感動したのかどうか、その辺はわからないが、強いインパクトを感じたことは間違いないだろう。
「犀」という漢字には、そうした当時の人々の思いが籠っている気がするほど。
漢字の「犀」に「牛」の文字があるから、その形態が牛と似ていると感じたせいか、牛の仲間と認識したことも考えられる。
いずれにしても、花のキンモクセイとは似ても似つかないということは確かである。
そんなことを考えながら、歩いていると、キンモクセイの鋭いほどの香りが一段と強く感じられた。
花の香りにはいろいろあるけれど、遠くからはっきりと分かるのはキンモクセイが随一ではないか。
匂いからすると、花は肉厚で華やかなイメージがあるが、実際は花は小さく、本当にはかない、少しの風にも散らばってしまうような華奢で繊細さがある。
多くの花は花弁が落ちると、地面と混じりあい、汚れた感じがするのだが、キンモクセイの場合は硬質な金属製の玉のようにきれいなままだ。
どこか無機質な感じさえする。
この小さな花をビーズのようにつなげれば首飾りができそうなイメージさえある。
また、地面に散らばる花の姿は夜空をおおう星のようでもある。
そのあたりを意識したのだろうか、作家で詩人の室生犀星の名前には「犀」と「星」がついている。
叙情的な詩やセンチメンタルとも言える作品を書いた犀星には、キンモクセイに似た匂いがある。
ただ、イメージと実際は大きく変わっていて、名前負けするところがある。
実際の犀星の容貌は、名前の優雅さとはかけ離れて無骨で美形ではない。
無骨なサイに似ているとさえいっていいかもしれない。
犀星の友人だった詩人の萩原朔太郎は、犀星の詩から美少年をイメージしていたらしく、そのあたりの期待を抱きながら犀星に会ってがっかりしたことを述べているほど。
「文は人なり」とはいうけれども、表現されたものとそれを生み出した本人とはかけ離れていることは不思議ではない。
それは、タレントや歌手の名前が独り歩きしてイメージを作り上げていき、実際とは違っていることと通じる面がある。
考えてみれば、人は自分を客観的には見ることができないから、自分がそうありたい、そうなりたいというイメージを込めてペンネームなどをつけることがある。
犀星にしても、自分の姿かたちの現実を受け入れがたく感じたから、様々な思惑やイメージを膨らませて美しい名前をつけたのだろう。
しかし、別な面から見るならば、外観は余り見栄えが良くなくても、その魂は純な精神を有していることがある。
犀星は、生涯自分の故郷を愛し、そして、そこに自分のルーツ、帰るべき原郷として忘れることがなかった。
もちろん、そこには故郷に生きていた時代の不遇で寂しい人生、苦い思い出なども沢山あった。
それは犀星の有名なふるさとを歌った詩「小景異情ーその二」でも明らかである。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや」
このふるさとに対する愛憎のアンビバレントこそ、故郷というものである。
いいことだけがふるさとにあるのではない。
そこには苦しみや苦悩、悲哀、涙も、二度と思い出したくないこともある。
だからこそ、逆に言えば、そこがふるさとなのである。
母親のように待ってくれている場所、身体は都会にあっても、魂が帰るべき場所、それがふるさとなのである。
(フリーライター・福嶋由紀夫)