まさか、もう今の若い世代では、一昔前のような主人が妻を呼ぶような「おーい、お茶」などというような言葉を使う人はほとんどいないだろう。
だが、かつては、このような会話がなされていて、この主人が語る「おーい」という妻を呼ぶ時間や言葉のニュアンスから、何を言っているのかを判断した。
良妻とは、それが新聞を持ってこいなのか、飯なのか、何を命じているのか、を即座に以心伝心で理解し、それを実行に移すのが当たり前、という常識というか暗黙の了解があった。
今ならモラハラやパワハラと捉えられるようなことがまかり通っていたし、それが異常という感覚はなかった。
いいか悪いかということよりも、その時代の家族関係が男尊女卑的な一方的な関係を強いられていたのである。
その上で、「おーい、お茶」という主語と述語を省略した会話(文)が成立していた。
今は男女平等という意識が浸透し、こうした一方的な関係は存在しなくなったが、この前時代的な夫婦関係を象徴するような「おーい、お茶」という言葉には、逆の意味で、コミュケーションというものの本質を教えてくれる面がある。
すなわち、コミュニケーションが一方的な固定的関係ならば、意味不明であっても、成り立つということである。
その声のリズムや感情の喜怒哀楽によって、暗黙の了解、夫婦の両者によって、それが指示している内容がすぐわかるのだ。
たとえ、それが「おい」だけであっても、妻の方は即座にそれがわかるのは、それ自体が夫婦言語ともいうべきものになっているからである。
そうした夫婦の会話を第三者が聞いたなら、チンプンカンプンだが、それはこの関係性外の他人だからであるといってもいい。
夫婦の時間を共有していない第三者には、「おい」はただの記号にしか過ぎないので、それが指示する意味を理解できないのである。
こうした夫婦の前時代的なコミュニケーションは、言語というものが、家族のような閉ざされた閉鎖空間では、シンプルかつ記号的に成立する。
すなわち、コミュニケーションとして言語が理論的かつ説明的な文章的なものでなければならないというのは、他者との相互理解の必要から生まれたものであることがわかる。
自分と他者との間にコミュニケーションを成立させるためには、言葉を相手にわかるように表現しなければならない。
主語や述語を構成して、何を話そうとしているのかを明確にする。
これは、家族外、地域外との相互理解のためであり、それを拡大すれば、自国語と外国語の違いを超えて相互に理解するためには言葉をアイマイなものとすることはできない。
間違った受け止め方をされないように、論理的な構成と意味の厳格さ、そのための合理的で洗練された表現が求められる。
その究極的なものが外交文書などの公文になるかもしれない。
それが強いられるのは、戦争や平和協定を結ぶために国同士がどうしても交流しなければならない大陸国家、すなわち異民族との交流が陸続きのために原則的に必要不可欠になる関係といっていいだろう。
だからこそ、異民族との交流が不可避的な大陸や半島国家と四方を海に囲まれている島国とでは、言語の発達が違っているのである。
大陸における国家間では、「おーい、お茶」のような夫婦のアイマイな言語が成立することができないといってもいい。
その意味で、日本語のアイマイな表現は、夫婦言語に近い性質を持っているということができよう。
島国内の言語であるために、海の外の異文化異民族との交流を意識したものではないのである。
それがいいか悪いかという問題ではなく、そのような環境と歴史性をもって存在してきたために第三者からみれば、何を言っているのかよくわからない、それだけではなく、言葉の表現とは逆の意味を持っていることさえある。
「いいですね」という言い方であっても、「それはいい」という肯定の場合と、その逆の「いい(要らない)」という拒否を意味している場合がある。
これは外国人には、なかなかそのニュアンスを理解することが難しいだろう。
それは何も外国人だけの問題ではなく、日本人同士でも同じような事情が地域性によって生まれることがある。
たとえば、京都では「ぶぶ漬けでもどうです?」と言われたら、それはぶぶ漬けを食べませんか、という誘いではなくもう帰ってくださいというような意味の会話であるという例がある。
これは京都という千年の文化が生んだ記号であり、京都人同士の合言葉のようなものである。
このように、日本語の表現は、その関係性が島国特有の相手との絶対的な対立を避ける、どっちでも取られるようなアイマイさをもっている。
これは島国での平和を維持するためには友好かつ合理的な言語表現であった(戦争であっても互いに相手を絶滅するような対立を避けた)。
アイマイにした方が人間関係がスムーズにいくといった背景がある。
そのような関係によって構築された日本的でアイマイな相互理解は、たとえばゲームの将棋のように、相手の駒を奪っても、自分の駒として再利用するというルールにも表れている(中国や韓国では取った駒は再利用できない)。
これは日本国内での戦争で捕虜となった者を自分の家臣として採用して来た日本的な制度が背景になっていると言えよう。
島国という狭い環境で互いに相手を滅ぼすまで殺し合うまで戦争することはお互いに疲弊して滅亡を迎えることなので、妥協して共存していくしかなかったのである。
日本以外の国ではそれはルールとして成り立たなかった。
なぜなら、中国などの大陸国家は、戦争とは相手を滅ぼすことであり、相手を生かして自分の家臣とするというようなことは常識的にはあり得なかった。
反逆すれば、あるいは政治的敗者になれば、一族族滅という歴史的な多くの事実がそれを示している。
ゆえに、相手の言語と自分の言語を厳格にすり合わせ、誤解のないように、自国語を磨き、合理性と緻密さが求められたのである。
その意味で、夫婦語的な要素をもつ日本語は国内語としては完成されたものだが、国際化時代には逆に不合理で使いにくいコミュニケーション言語となってしまうのである。
日本が真に国際時代を迎えるためには、夫婦語からの飛躍や外国語の習得が求められるといっていいかもしれない。
(フリーライター・福嶋由紀夫)