風もあまりないのに、燃え盛る炎によって煤が飛び、金網の天上にぶつかりそこで砕け散ってしまう。
黒煙が上がり、それが空に次々に消えていく。
まるで修験道の火祭りのように。
木や紙の焼ける匂いも鼻孔を刺激する。
消防団の法被を着た人々が、神社の一角に設けられたテントに積み上げられた縁起物、それらには役目を終えたお札やダルマ、正月のしめ飾り、神棚、竹の束、その他雑多な人形や得体のしれない紙袋や粗大ごみのようなものもが山のようにある。
それらを消防団の人が掛け声をかけながら台車に積んだり、ビニールシートにくるんで、四角に囲んだ網の中に放り投げる。
たちまち、火が燃え移りごうと燃え盛る。
中には、竹が割れて中の空気が破裂するパンパンという音もする。
コロナ禍で、密にならないようにと訪れた神社の初詣で、私は珍しくお焚き上げ、どんど焼きの現場に偶然出くわしたのだった。
遅くなったのは、もちろん、コロナウイルスの感染のこともあったが、もともと性格的に人出の多い場所は苦手だったこともある。
日本人は割合並ぶことや行列を辞さない忍耐心があって、はやりの店や名店に朝早くから並んで順番を待つのを苦にしない人が少なくないが、私はそれはできない。
それで、行列ができる評判の店にはほとんど行ったことがない。
そんな性格もあって、初詣も遅くなってからすることが多い。
下手をすると、そのまま忘れてしまうことがあるが、それでも神道の神さまはじっと見守ってくれているような安心感がある。
どこか氏神を通じて精神的につながっている感じ、自分の先祖たちとのつながりをそこに感じるからだろうか。
たとえ、長く音信が遠のいていても、血のつながった親族や幼馴染、知人友人とは、久しぶりに会っても、その間に経過した時間を飛び越えて過去の思い出や感情がよみがえってくる。
そんな見えない縁、時空を超えた見えない糸がつながっている安心感。
その上、私自身、神社のもっている凛とした雰囲気は嫌いではない。
由緒ある神社には樹齢数百年を超える巨木があるが、それは自分の寿命を超えた歴史を感じさせるために、どこか懐かしいというよりも、畏怖の感覚がある。
その意味で、私が親しみを感じているのは、そんな長い時間をさかのぼる巨木が林立するような神社ではなく、ありふれた感じがする近所の神社である。
そこでは、秋祭りの露店があったり、神輿の巡行や神楽が演じられるので、幼い時に時々通っていたことを思い出す。
そこで、金魚すくいをしたり、綿あめを食べたりした楽しい思い出もあるが、テキヤの兄さんにいいように騙されて有り金のお小遣いを全部巻き上げられて泣きながら家に帰った思い出もある。
神聖な場所であると同時に、精神の形成に少なからぬ記憶を与えた神社は、長い間忘れがたいものがあった。
そんな記憶があるせいか、旅をして列車の車窓から見える神社や村社、祠などを見かけると、そこにはどのような人々が住み、どのような祭りが行われているのだろうか、と空想することが楽しみだった。
もちろん、見知らぬ街を訪れた時、神社を見かけると、鳥居をくぐってそこを参拝してい気がしてくることも多い。
だが、直感的にここはお参りしなければならないと思うほかは妄りに参拝しないようにしている。
というのも、神社にはそれを奉じていた氏族や部族の魂の痕跡、魂魄が残っているような気がしていて、それが私の先祖との関係で、敵対関係であったり、殺し合ったりした歴史が影にあるのではないか、と感じたりするからだ。
こんなことを書くと、妄想や思い過ごし、神経質などの誹りを受けそうだが、私はその直感は全部ではないけれど、おおむね正しいものと思っている。
「桐一葉落ちて天下の秋を知る」ということわざがあるが、意外と人間の直感には、そうした感覚に通じるものがある。
私の親族にしても、その系譜をたどっていくと、どうも南の方からどういう理由があったのかはわからないが、追われて逃げて来たのか、それとも進んで開拓のために移民して来たのかはわからないが、故郷に住んでいたときは、どうもある地域に孤立していることから、何百年前かはわからないが、遠くから移民して来たとしか思えない点がある。
墓の位置、親族をたどっても、あるいは名前などをたどっても、どうしても故郷の東北地方の県全体に広がりはなく、ある地域にだけ集中しているのだ。
いずれにしても、そうした感覚が私の精神の底流にあり、それが参拝していい神社どうかを区別しているようだ。
その意味では、東京の今住んでいる地域にある神社は、どこか安心できる雰囲気があり、もしかしたら先祖と何らかの関りがあったかもしれない。
そうしたことがあるので、時々、住んでいるところの近くの神社に行って、その静けさやぽっかりと空いたような空間の空気を吸い、ぼんやりと過ごしたりする。
そこには、樹齢百年を超える樹木があり、そのたたずまいを感じること、その沈黙の声を聞くような気がする。
どのような歴史、事件、人々の愛憎のドラマ、町の興亡があったのかはもちろん、紙の史料を調べてもわからないが、おそらく何かがあったのだろうと思っている。
ある日、ふらふらとする気持ちの中で、初詣に行こうと思ったのは、要するにそうした因縁やDNAに残っていた記憶がよみがえったことやコロナ禍で、マスクや手洗い、消毒だけでは不安な気持ちがあったからだろう。
そして、しばらくぶりに訪ねた神社で、どんど焼きが行われていたのは、神仏に頼るということだけではなく、無意識に先祖からの働きがあったからだろうか。
それはわからないが、普通のたき火とは違ったどんど焼きという儀式に、なぜか心が少しばかり落ち着いているのを感じていた。
もしかしたら、心の底に泥の様に淀んでいたものを、どんど焼きと共に昇華するという意味があったのかもしれない。
それはわからないが、同じどんど焼きをただ見つめている人々の姿を見ていると、彼らもまた何か神仏の縁のよって、ここに今いるのではないだろうか、とふと思った次第である。
「新しい葡萄酒は新しい皮袋にいれなければならない」
ふと、昔読んだ聖書の一節が思い浮かんだ。
(フリーライター・福嶋由紀夫)