記事一覧

スポーツ選手と読書

 肉体を使ってやるスポーツは、どうしても頭脳よりも、その肉体の能力、常人を超えた運動能力ばかりに目がいってしまう面がある。

 要するに、頭でものを考えることが少ない「脳筋」といったイメージがある。

 言葉ではなく、肉体という言語で語り合うといったもの。

 殴りあって理解するといった肉体言語が主体ではないかといったイメージである。

 これは私だけの先入観ではない気がする。

 運動選手は、知的な活動ではなく、肉体を使って自己表現をする。

 それが多くの人々の運動選手に対する見方ではなかろうか。

 特にボクシングなどの格闘技なので、試合している以外のイメージが浮かびにくい。

 ましてや部屋にこもって読書している姿を考えることなど、難しい気がする。

 ところが、そうしたスポーツ選手に対するイメージが覆るようなことが最近あった。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

五木寛之傑作対談集 1 [ 五木 寛之 ]
価格:1,980円(税込、送料無料) (2025/2/3時点)


 それは、五木寛之著『五木寛之傑作対談集Ⅰ』(平凡社)を読んで感じたことである。

 五木寛之は、作家であると同時に人生論関係のエッセイストとしてもベストセラーを出していることで知られているが、もう一面では対談の名手であることがある。

 作家であれば、対談相手はおおよそふつうは自分のフィールドの範囲にいる同じ作家仲間、文芸評論家、大学教授、ジャーナリストなどが主な相手だが、五木氏はそのジャンルの枠組みを超えてさまざまな分野の著名人と語り合っている。

 この『五木寛之傑作対談集Ⅰ』でも、村上春樹、山田詠美、瀬戸内寂聴、埴谷雄高などの作家と対談しているが、そのほか音楽家のローリング・ストーンズのミック・ジャガー、キース・リチャーズ、歌手の美空ひばり、福山雅治、写真家の篠山紀信、劇作家の唐十郎、漫画家の赤塚不二夫などがいる。

 中でも、スポーツ選手のボクシングのモハメド・アリ、プロ野球の名選手・長嶋茂雄との対談は少し驚かされるメンバーといえる。

 モハメド・アリは、その華麗なボクシング・スタイルが有名で、詩的な表現もすることでやや「脳筋」の運動選手というイメージからは違っているけれども、それでも格闘技というイメージが強くものを考えるというイメージはあまりない。

 ところが、アリは遠征するときは、必ず本をもっていて読んでいるというほどの読書家であることを明らかにしている。

 その読書が単なる娯楽ではなく、物事を深く考えるための読書であることは、五木氏との対談で社会問題、自身の信仰のイスラム教についての考えも披露していて、ボクサーというよりは哲学者というイメージさえ浮かんでくるほど。

 「女の人たちを尊敬するように人々を教育しようと私は思っています。最初に私たちが学ぶのは女の人からだし、私たちの最初の先生は女の人でしょう? 母親は最初に接する看護婦です。もし姉妹、母親、娘たちを尊敬できないならば、その人たちが作った国を尊敬できる筈(はず)がないじゃありませんか」

Shigeo Nagashima cropped 1 Shigeo Nagashima 20211103.jpg
文部科学省ホームページ, CC 表示 4.0, リンクによる

 

もう一人の長嶋茂雄についても同じような読書家であることが理解できる。

 長嶋氏は、五木氏の本を読んでいて、そこで感じた疑問などを質問している。

 物事を深く考えるよりも、野性的な勘で物事を判断しているというのが、長嶋氏のイメージだろう。

  よく使われる形容詞として、コンピュータと掛け合わせて「カンピュータ」などと表現されていることも少なくないからである。

 その意味では、緻密な頭脳で作戦を立てる野村克也監督とは対照的にみられているが、この対談では、五木氏が指摘しているように、勘のような判断を下した思考プロセスには、その背景に長嶋氏なりの論理的な思考があったことを明らかにしている。

 ただ、それらのプロセスを相手に理解できるように解説や説明することがなかなか難しいので、そのまま「カンピュータ」ということにしているということなのである。

 「よく言われておるんですが、やっぱり即興的なものではないですよね。五木さんがおっしゃったように、背景、あるいは相手の状況、すべてが集約されたものが直感になりますでしょうか」

 このあたりを読んでいくと、まさにスポーツ選手というのが物事を深く考えない「脳筋」といったものではないことがよくわかってくる。

 ただこうした運動選手=「脳筋」といったイメージが定着するようになった原因はあるように思う。

 それが高校野球やその他アマチュアやプロの運動にみられる根性論や口答えするな、体で覚えろといった体罰が多かった上下関係であるといっていいかもしれない。

 こうした指導者と選手にある上下関係が、言葉などで相手を理解させるものではなくて、身体で覚えさせるという訓練や教育が恐怖などの体罰、肉体言語で行われることが影響しているのである。

 強くなるためには、指導者自身の自分がそうであった肉体言語による厳しい訓練が必要であるという、これまでの運動選手に対するイメージが、「脳筋」といったものを生み出していた。

 しかも、それを増強させていたのが、マスメディアのスポーツ報道が、どうしても表面的な記録や勝負ごとにこだわり、その本質的な思考という要素を省いて簡略に報道しているという面、それが大きな要因ともなっている気がする。

 相手の本質を見つめることよりも、口当たりのいいレッテルを張り付けて、わかりやすくかつ単純化してしまうのが、現在のワイドショー的な報道で、その弊害がスポーツ選手を「脳筋」的なイメージ化している面があるといっていいかもしれない。

 改めて、スポーツ選手でもトップに立つような人物は、物事の本質を深く考えていることを知らなければならないのではないか。

(フリーライター・福嶋由紀夫)

関連記事

コメントは利用できません。