「スマホを家に忘れて一日中不安だった」「スマホは絶対に手放せない」
そんな女子高生の話をテレビで見た覚えがある。ずっと前のことだ。
その時、私はガラパゴス携帯、通称ガラケーを愛用し、それで十分だったので、何を言っているのだろう、たかが携帯電話ではないのか、と不思議に思ったことを覚えている。
もちろん、私のこの感慨には、高齢者特有の保守的な精神、新しいものにアプローチすることへの億劫さや使いこなせないだろうという思いや、新技術を覚えるのは難しいだろうという恐れがあったことも確かだ。
使い慣れている携帯電話で仕事もプライベートも、十分回せていたことも背景にある。
要するに、スマホは便利だろうが、自分にはそれを必要とはしない、という頑な思い込みがあった。
そんな私がスマホに乗り換えるようになったのは、社会にスマホが浸透し、それを持たない方が奇異の目で見られるようになったことがある。
友人や知人の同じ世代だとそうでもないが、仕事柄、若い人と接することも少なくない。
彼らが知らない事柄を即座にスマホで検索したり、地図アプリで道に迷うことがない姿を見て少しばかりうらやましくなった。
だが、それはまだいい。アナログだろうが、少し時間をかければ、そんなことは解決する。
耐えられなくなったのは、たとえば、会話で、「まだガラケーですか?」とやや憐れむように言われたりすることが多くなったからだ。
その時は、「この方がいろいろな機能がなくても便利だからだよ」とか「プライベートまで支配されたくない」といった弁解をしていた。
それだけならいい。
自分は孤高な精神で、ガラケーを使い続けているのだという奇妙な自信を持っていたからだ。
ところが、携帯の更新に行ったりする店で、あっさりと、若い店員に「まだガラケーなんですね。ガラケーはもう選択肢はないですよ」と何度も強調され、機械類にはまるっきりのオンチだった私は、お説拝聴を食らって、そうかな、と自信がぐらつき出した。
ライターの仕事は、ペン一本で仕事ができるけれども、インタビューする時には、電話でアポイントを取り、対象者の知識を知るために関連の本を購入したり、図書館で調べたりすることが多い。
そんなことは当たり前だったが、だんだん歳を取るにしたがって、そうした地道な努力が少しずつしんどくなってきた。
もし、調べものにスマホを使えば、検索など瞬時にできるので便利ではないか、時間を短縮して仕事ができるのではないか、そんな誘惑が来たのだ。
といっても、もういい年齢になっていたので、便利だとは頭でわかっていても、手を出すのは勇気が要る。
そんなわけで、スマホを導入するまでは、かなり逡巡し、スマホを使っている少数の友人や知人に聞き、パンフレットなどを調べて、ようやく清水の舞台から飛び降りる気持ちで乗り換えたのである。
今やスマホは公私ともに手放せないアイテムになったが、使っていると、自分の過去の醜態を忘れて、まだガラケーの世代の友人や知人に、「まだガラケーなの?」と挑発するようになったりと奇妙な優越感を感じたりしていた。
まさにアホである。
その上、スマホが自分の身体の一部になったかのように感じて、そばにないと不安に駆られ、四六時中、スマホを身近に置くようになってしまった。
スマホ依存症の女子高生を笑えない文字通りのスマホ漬けになり、用が無くても、頻繁にスマホをチェックし、メールが来ていないか、ラインが来ていないか、スマホから離れたわずかな時間に着信がなかったか、充電は大丈夫か、などと点検するのが当たり前となってしまった。
しかし、自分ではあまり自覚はなかったので、気にすることはなかった。
アル中のように、まだ自分は酔っていない、スマホ依存症ではない、と頑なに思い込んでいたのである。
それが崩れたのが、世界的なベストセラーになっている教育大国のスウェーデンの精神科医の書いた本、アンデシュ・ハンセンの『スマホ脳』(新潮新書)を読んでからである。
この本では、スマホの中毒症によって起こる様々な問題を挙げているが、その中には、鬱病などの心の病が増えたことやスマホによって教育の学習能力が低下したこと、眠れないという睡眠障害、記憶力や集中力の低下などの弊害が多くの問題が起きていることを、統計やその他の調査など具体的な数字によって証明している。
今や世界はスマホという疑似的な国家を超えた精神文化が世界を支配しているような状況になっていることがよくわかる。
ハンセン氏は、ただそのようなスマホ中毒によってが引き起こされる現状を分析、批判するだけではなく、その背景にある人類の深層心理にまで原因を追究している。
それは、人類が太古の時代、生存競争の中で、いかに生きていくか、そのためには人より情報を知ろうという欲求があったことを指摘する。
スマホで新しい情報を検索する衝動が止められないのは、そうした深層心理によって食料確保への衝動が根底にあるとしている。
四六時中飢餓状態にあったので、どこに獲物がいるのか、食べられる果実や植物があるのか、それを知るために仲間と話をして情報を得ようとしたりした深層心理ゆえの生存欲求。
それがスマホを手放せない理由の一つだという。
そして、その欲求は、安心感をもたらす快楽ホルモンを分泌させるので、気持ちよくなってしまうのである。
そのようなスマホの持つ弊害は、アップルのスティーブ・ジョブスは、自分の子供にはiパッドを触らせなかったとか、多くのIT企業のトップが子供にはスマホを与えなかったというエピソードに象徴されるだろう。
大人ならいざ知らず、成長途上の子供の脳の成長にはこうした便利すぎる機器は、自分でものを考えるという知的な成長を阻害するということを知っていたからであるとハンセンは紹介している。
目から鱗の話が多いが、一面、太古の原始的生活をしていた人類の生活スタイルにすべての原因を集約させることはいささか無理がある気もする。
いずれにしても、問題の本質は、便利なものだからといってそれに依存しすぎることを抑制することである。
スマホに使われるのではなく、いかにスマホを使いこなすか、ということだろう。
(フリーライター・福嶋由紀夫)