秋から冬にかけての季節は、物思う季節である。
秋思という言葉もある。
それで、椎名誠の「インドでわしも考えた」ではないが、私もふとこんなことをつぶやいてみた。
便利なものは、本当に便利なのだろうか。
かえって不便なのではないのか。
そのような思いを抱いたのは、スマホ依存症を考える機会があったからである。
スマホをのぞき込んでいる人を見かけるのは当たり前となった。
道を歩いている人も、電車に乗っている人も、座っている人も立っている人も、スマホを大事な宝物のように握りしめている。
ひどい依存症になると、車の運転中にスマホを見ていて事故を起こしたケースがあることも聞いたりする。
そんな事件を起こしてしまうのは最悪だが、それと似たような事態はよくある。
歩きスマホをしていて、人とぶつかったりすることやドアなどに気づかずに衝突してしまうことなどである。
そうなれば、立派な依存症といっていい。
そこまではひどくないと思っていた私も、五十歩百歩かもしれないと思うようになった。
なぜなら、スマホが身近にないと、不安な気持ちになってしまうからで、家に忘れてしまったときには大変である。
こうしている間に仕事相手から連絡が来ているかもしれない、家族が事故にあったかもしれない、というような根拠のない不安な思いに駆られるからである。
もちろん、急いで家に帰ってスマホを探すというような重症ではないが、スマホが気になること自体が依存症といっていいだろう。
そのほかにも、緊急の連絡があるかもしれないと、就寝のときにも必ず枕元に置くし、時間があればメールのチェックや音信の履歴を確認したりする。
これが正常な生活とは言えまいと思う。
少しスマホを離れても、急に問題が起こるという可能性は少ないだろう。
なのに、スマホがないと刀を忘れた武士のように不安になるというのは、やはり依存症の一歩手前であることを認めなければならない。
私も立派なスマホ依存症だ。
人のスマホ依存症を笑ってはいられない。
女子学生など若い世代が、スマホを手放せずに目の前にいる友人と会話する代わりにスマホで会話するといった話はよく聞く。
言葉を発せずに、スマホの画面で指を動かしている風景は、異常といっていいが、それでもコミュニケーションの一つの形としてあり得ないことではない気がする。
なぜなら、言葉だと声やイントネーションや気配から誤解を生み、感情のもつれからケンカに発展することもあるかもしれない。
そんな生身の会話で起こるケンカも、スマホを介在すれば、いいか悪いかは別として防ぐことができる。
無機質なメールでは、声による感情の動きを読み取ることができないからだ。
その点では、スマホ越し会話も、それなりに成立している意味があるといっていいかもしれない。
とはいえ、相手を目を合わせないでスマホ越しで会話するというのは、スマホ依存症でいえば、かなり重症と言える。
そうしたケースに比べれば、まだまだ自分はまだ大丈夫と思っていた確信が、最近、ゆらいでいる。
軽症であろうが重症であろうが、スマホ依存症という点では変わらない。
いつ重症患者になるかわからないのである。
といっても、依存症がそれほど悪いのか、といった思いをすることもある。
何か居直っているような言い方だが、私なりに考えると、物事には二面性があって、一方的に悪いこともいいことと決めつけることができないと思うからだ。
軽症か重症かの違いはあるだろうが、依存症というものは、人の行動心理の上ではいい部分もあると思っている。
たとえば、「推し」というのも、ファン心理といえば聞こえはいいが、分類すれば依存症といっていいだろう。
なぜなら、極端になると、ストーカーに転落してしまうからである。
また、友情というのも、その心理からみれば依存症的な部分がある。
信頼するというのは、その相手の全部を善悪をなるべく判断しないでゆだねるということでもあるからだ。
これらが依存症と言われないのは、それが心身に基本的に大きな影響を与えないからだろう。
依存症というと、どうしてもアルコール依存症などのように、事故を引き起こしたり身体健康を損なうような、いい面よりも悪い面の方の影響を心身に与えるからだろう。
そういう点からいえば、スマホ依存症というのは、適宜に使っていれば、それほど問題ではない。
ただ、以前にも書いた記憶があるが、心身の成長期、特に脳の発達にかかわる時期に自分でものを考えるということを阻害する点が問題になる。
それがよくわかるのが、IT産業をリードしてきたアップルのスティーブ・ジョブズやマイクロソフトのビル・ゲイツなどが、自分の子どもにはスマホ使用を禁止しているという事実だ。
スマホの便利な点をよく知っていると同時に、そのマイナス面もよく理解しているからこその処置だろう。
便利なものだからこその落とし穴がある。
「人間は考える葦である」と述べたのは、フランスのパスカルだが、考えるという自律的な思考をするためには、最初から便利な道具を使っては育たない。
失敗と成功を繰り返しながらの試行錯誤というプロセスが必要だ。
その試行錯誤のハードルを軽々と越えてしまうスマホは、第二の脳という機能はあっても、それを使う本体の人間の脳の発達にはかかわらない。
そのことを考えれば、スマホ依存症の本質が見えてくるといっていいだろう。
そこで、思い出したのが、知人から聞いた話。
知人友人が家に集まって楽しい会合、パーティーをして終わり、後片付けをしていたら、友人の一人がスマホを忘れているのに気づいた。
後日届けるか、本人が気づいて来るだろうと思っていたら、なんと翌朝のまだ真っ暗な未明、どんどんとドアをたたく音がした。
いったいこんな時間に訪ねて来るなんてだれだろうとビビッて聞くと、スマホを忘れた友人だった。
話を聞けば、スマホがないことに夜中に気づき、それから一睡もできなかったというではないか。
それでドアの前でこちらが起きるまで待っていたという。
まさに、スマホ依存症の重症患者である。
(フリーライター・福嶋由紀夫)