昨年末あたりから、突然、左足が痛み、関節炎かどうかわからないが、歩行がかなり困難になってしまった。
元々取材などのほかは基本的に出不精だったのだが、散歩や本の探索などはよくやっていた。それさえもあまりやれないほど、足腰が悪くなったのである。
年齢的にも高齢者なので、分相応の老化現象なのかもしれないが、生活には不自由するので困る。
もちろん、無理して出かければ出かけられないことはないのだが、痛む足をかばいながら歩くのが大変なのと、階段を降りるとき、手すりに頼っても、一段を跳び越すようにしないと降りられないのである。
これはかなり危ない。というわけで、家でスマホやタブレットでメールをしたりネット検索や原稿を書いたり、読書にふけったり、そして、ユーチューブなどを見たりして過ごすことがここしばらく多くなった。
まさにオタクの引きこもり状態だが、ユーチューブの視聴を続けているうちに、様々なことを思うようになった。
その一つが、居ながらにして、世界旅行をするような動画が多いこと。
旅をしたりするのは、もちろんだが、海外の大学に留学している学生が、発信している動画には、シロウトだけに、かえって妙なリアルさやテレビのようなフィルターがかけられていない現実の生々しさを感じさせてくれるものがあって目を奪われる。
中には、やばいものもあるようだが、そういったグロテスクなものや残虐なものは見ないようにしているので、わからない。
留学生のものには、現地に住んでいないとわからないコアな情報がつめられていたり、スラム街のようなところを編集もあまりされていない画像をえんえんと流しているものもある。
中でも、インドの大学に留学している学生のものが面白く思ったのは、現地語(ヒンディー語)に堪能なために、観光客では見ることのできない、よりディープな世界を垣間見ることができること、現地人なみの交流ができることである。
もう一つは、国内のユーチューブには奇抜なことに挑戦したり、趣味を爆発させて自分のことを演出しながら放映しているものが少なくないことがある。
これまで見たのは、ごく一部かもしれないが、ネットマンガ、出会いや心霊体験談などを文字につづったもの、食レポ、温泉など観光地紹介、ゲームやパチンコをするだけの動画、本当はプロなのだがシロウトを思わせて超絶技巧の演奏を披露するドッキリ動画、鉄道オタクの挑戦(青春18切符などで旅行)、あるいはバイクで雪道の北海道の最北端の宗谷岬を目指すもの、車改造のプロセス、大食い挑戦、キャンプ、車中泊などなど、バラエティーに富んでいる。
いずれも、本人たちが身を張ってやっているので、面白いのだが、反面、なぜ彼らユーチューバーたちは、これほどまでに投入してユーチューブに流そうとするのだろうか、という疑問もある。
おそらく、自分というものの存在を他人に認めてほしいという、承認欲求もあるのだろう。
ただ、それだけではない。ユーチューブには、アクセスが増えることで、広告がつき、収入が得られるということが大きいようだ。
ある始めてから数カ月のユーチューバーが、みずからの収入を開示しているのを見て、なるほどと思ったのは、たったの数カ月で、会社の新入社員なみの収入が得られることである。
そのユーチューバーは、会員数は約2万人なので、そのアクセスもそれほど大くはないが、それなりにあったために、そうした収入になったという。
動画作成の時間がどれくらかかるのかは、それぞれのイベントによって違うだろうからわからないが、それでも、毎日、会社員としてアクセクして働くよりも、時間は少ないのは間違いないだろう。
その意味で、このユーチューバーも、かなりの若者が参入しているのは理解できると述べていたが、それは確かにそうだろうと思う。
20代の若者がそれこそ一発当てて、あぶく銭をつかむことができるのも、ユーチューブの魅力なのかもしれない。
実際、成功したユーチューバーの中には、スタッフに面白がって、月給をこの月は一千万円と言って渡したユーチューブを公開したものもある。
また、宝くじを数百万円から一千万円単位で購入し、どれくらい当たるものかを流すユーチューブもある。
大体は元は取れない額にしかならないのだが(本当に億単位の当選があっても秘密にしている可能性もあるかも)、アクセス数が増えれば、おそらく元は取れるか、それ以上の収入になるのだろうが、見ていて、面白いというよりも、まるで別世界の人間たちを見ているような違和感を覚えたりする。
このような行為の延長上には、おそらく食品を粗末にする動画(仕事場でアルバイトや従業員が悪ふざけをしてみせるものなど)、社会常識を外れて、面白ければ何でもいい、というような反倫理的な行為とどこかつなっがている気がする。
見た人がどう思うかというような社会的な常識が欠けているということである。
要するに、自分が良ければ他人はどうでもいい、というような悪しき個人主義の風潮に染まった思考がそこにはあるように思う。
人に迷惑をかけているのに、そのことを判断する常識的な思考が働かない。
ここからは、人に迷惑をかけない、人のために生きる、犠牲になる、というような公的な奉仕精神は生まれないといっていいだろう。
もちろん、ユーチューブはそうした影の部分ばかりではなく、先に記したように、いながらにして、世界の情報をビジュアルに知ることができるという利点もあることはいうまでもない。
マスコミなどのフィルターがかけられた情報(政治的やその他の思惑によってかなり情報が編集されていることがある)にはない、本当の意味での必要不可欠な生の情報に近い原石がゴロゴロと転がっている。
もちろん、フェイクニュースなどのジャンク情報、有害な情報もあるから、それを峻別し、判断する知性や良識が必要ではあるけれども。
要するに、そのようなジャンクニュースに惑わされない良識や知性があれば、問題はないのである。
その上、この双方向的なメディアの発達によって、これまでにない医療ができるという利便性や公益性もある。
その意味で、ユーチューブは、様々な可能性を持ったメディアだと言っていいのではないか。
このユーチューブを通して、社会貢献、世界平和につながるメッセージを伝えることも可能だし、そして、世界の人々の意識を変えることもできるのではないか、と感じている。
(フリーライター・福嶋由紀夫)