この世の中には、右翼や左翼といった区分けがあるように、ペットにするなら「犬派」や「猫派」といった派閥があるらしい。
絶対に猫がかわいい。
飼うなら主人に忠実な犬の方がいい。
たかがペットというなかれ、このペットの写真やグッズの売り上げが右肩上がりで増えているらしい。
しばらく前からのトレンドに「かわいいは正義」といった言葉があったが、まさに猫や犬をかわいがる背景には、こうした愛玩の傾向が強くあるだろう。
中には、本当の子供のように思い、衣服を着せたり豪華な食べ物を与えたり、亡くなってからはペット専用の供養をしてお墓に入れたりする。
そこまでいくと、どこかやり過ぎのような気もしないではないが、それだけ愛情をかければかけるほど動物は応えてくれるという喜びがあるからだろうか。
人間の親子関係の場合は、そう単純ではない。
人間の子供だと愛情のかけかたを間違えると、むしろ反抗期で手ひどい暴力を受けるようになったり、引きこもりで自立できずに一家がそのために苦労と苦悩を背負ったりする悲劇がある。
人間の家族というものの関係が動物とは違っているのは、まさに本能ではない愛憎があり、子供にとっては自我の確立を通じて自分の個性を押しつぶすような制限や指導に反発するからだろう。
もちろん、ペットの動物にも、親に対する反発といったものがまったくないというわけではないだろうが、おおむね自立は親からの拒絶と巣からの追い出しによって、強制的になされ、それが本能によって大人としての自覚をしていくプロセスをたどっていく。
その意味では、人間の親子関係というのは、動物と同じような成長過程をたどっているように見えるが、その本質においては微妙に異なっている。
愛情のかけ方にしても、動物のような本能的なものには、子供に対する接し方にはある一定のパターンがあるが、人間の場合は親の偏った教育観、しつけによって、子供の精神がゆがめられてしまうケースがある。
最近、問題になっている親による子供への虐待というのも、こうした本能を超えた人間自身の考え方や信念によって生まれるといっていいかもしれない。
その意味では、人間の子供を育てるというのは、まさに大事業であり、ペットを一方的に愛するようわけにはいかない。
それこそ子供の精神の成長のためには、温かく見守ると同時に、自立しようとする心を育んでいく情操教育、親自身の精神的な成長が求められるのである。
子供を育てることが親の成長にもつながると考えれば、人生のすべてをかけても取り組むべき大事業であるといっていい。
ペットの犬と猫の話からだいぶ逸脱してしまったが、それだけペットと子供は愛情のかけ方が違っていなければならないということである。
ペットに一方的な愛情をかけるのは、自分の思い通りに育てたいという自己肯定、一方的な押し付けも含まれているのである。
とはいえ、こうしたペットを飼いたいという心には、自然や万物を愛する情緒にもつながるので、それ自体は悪いことではない。
ただそれが子供の代替物であったり、自分の一方的な思い込みでその色に染め上げてしまうことが問題なのである。
いずれにしても、犬派にしても猫派にしても、動物同士の本能的な威嚇や恐怖による争いはあるだろうが、それは大した対立ではない。
もちろん、犬と猫は犬猿の仲といわれるように、突然遭遇すると、お互いに威嚇しながら追いかけっこをする場合もある。
ただその時間が過ぎれば、それほど後を残さない。
ペットにおける対立は、それほど対立はないといっていいかもしれない。
これに対して、人間の左翼と右翼ならば、その思想の対立によっては、血を見ることも珍しくはない。
左翼や右翼の思想的対立は、激論を交わし喧嘩別れになって、そこで終わらないのが難しいところである。
報復という暴力事件に発展する可能性があるからだ。
言葉の掛け違いや論議が暴力に直結するのは、もともと小心者であるために、言葉で負ける局面を避けるために感情的になることによって暴力をふるうようになりやすいからである。
実は、私には母親からよく言われていた言葉がある。
「お前は小心者だから」
何かあると、私にそう語っていたことを思い出すが、要するに私が「内弁慶」であり、自分自身の本質は小心で、人の顔色をうかがう小さな人間であるというのだ。
何か大きなことがあると、いつも大きなことを言っていた私が人の顔色をうかがいながら小さく片隅に引っ込んでいた姿を見ていたからだろう。
そう、私は小心者なのである。
「弱い犬ほどよく吠える」という言葉もあるように、小心であるがゆえに自分自身に理論武装や知識の鎧をつけて自分を大きく見せようとする虚栄心があるのだ。
小心者は、人の顔色をうかがいながら、人の意見に対立せずに、自分のポジションを守ろうとする。
そうした傾向が制御できなくなると、言葉ではなく暴力という手段を取りやすい。
いやいや私は暴力事件などは起こしたことはないが、その可能性があると思っているのだ。
外形から見ておとなしい人畜無害に見える人間が、意外にも暴力事件を起こしたりするケースがあるので、改めてそのことを考えると、小心者こそ気を付けなければならないと自戒しているだけである。
(フリーライター・福嶋由紀夫)