ライフスタイルにおける男女の違い
家族を養うために、一生を外で働かなければならない男(一家の大黒柱、といっても、女性のケースもあるが)にとって、理想的なスタイルは、働く時間外の余暇をどのように使うのか(家族サービス以外の自分の時間の使い方)ということではないか。
要するに、第二の人生、セカンドライフにおける人生の意義をどう見つけるか、会社に勤めているときもそうだが、特に会社を辞めたのちの余生、そのライフワークをどう見つけるか、ということになるかもしれない。
会社に勤めていると、それが生きがいの大部分となって、ある意味ではそれに無意識に依存してしまい、会社に帰属意識を持ち、自分自身のライフワークなどということは意識しない場合が多い。
会社の仕事をしていれば、無意識に安心できるというか、自分自身の本当の生の目的、心の成長や豊かさ、人格の成長ということを考えなくて済むからである。人間関係も会社内、取引先との関係だけになりやすい。
そのような関係では、人間としての成長を促すような人格的な交流はなく、上司・同僚・部下といった社内関係、営業的利益につながる利害関係による外面的な関係に終わってしまう。
多くの人と出会い、名刺を交換し、年賀状のやりとりをしていても、それ以上の人間的なふれあいまでは、なかなか発展しない、距離のある関係で終始するのである。
けれども、そのような外的な関係であっても、疑似的な人間関係なので、自己の孤独を埋め合わせるような疑似的な生きがいのような満足感を与えられることはできる。会社組織に所属することは、そうした男性にとっては心のシェルターになり、生きがいのよすがとなってくれる。
しかし、それを定年で奪われてしまったら、寄る辺ない孤児のように頼るものもない絶海の孤島に放り出されたような不安・孤独などが襲ってくる。もちろん、そうであっても、家族(妻や子供)がいれば、それからの絆による新しい生き方の再構築は可能かもしれない。
ただ、もうその時期には、それまでのツケや借金(家族サービスをしてこなかった債務)などによって、家族から見放され孤立していくということはある。家庭内別居や熟年離婚というのは、その代表的な例といっていい。
男性は、古代から家族を養うために外で獲物を捕らなければならないので(そうでないと自分ともども飢え死にしてしまう)、獲物を捕まえるために目的意識が発達し、思考にしても行動にしても割合単純であり、焦点を絞るように生きている面がある。
たとえば、「会社人間」という表現もその一つで、要するに、ひとつのことに集中していると、他のことに意識を向けることができない(難しい)、仕事と家庭を同程度に意識し、それに同時に同じような意識や努力を傾けることが難しい。
それに対して、女性は同時にいくつかのことを進行させることが可能であり、男性の単一的な思考に比べると、複合的・複眼的な思考をすることができる。卑近な例でいえば、私の妻はテレビとタブレットのドラマを同時に見ていて、何の不都合も感じていないような気がする。同時並行に料理をし、洗濯機をまわし、布団を乾かしているといった行動をしている。
これは一点集中型で、一つの事に集中していると、他のことはまったく見えなくなってしまう私には不可能な行動様式である。妻と同じようにやれば、混乱してしまい、収拾がつかなくなるので、一つ一つを処理してから次の作業に移ることになる。
これは良し悪しの問題ではなく、男は外で獲物を捕り、女性は家庭を守り、子育てと同時に家事をするという、生活スタイルを死守するために、そのように最初から生まれてきた(あるいはそのような歴史的な過程を経てそのような精神になっていった)スタイルといっていいだろうと思う。
それは精神的なものだけではなく、身体においても、男性と女性は同じではないことがわかる。子供を育てるために、女性はそのような身体をしているし、それは男性にはできない部分である。
もちろん、子供が乳離れしていくにしたがって、子育てに男性が関与していく部分ができてくるのは言うまでもない。ただ、根本的に男性は子供をおなかに宿し、そして、出産し、お乳を与えるということができない、ということがある。これは身体的な限界であり、基本的変えることができない。
そうした差異があることでも、男女の基本的な役割、生きがい、生活スタイルの違いがあることを知らなければならない。そのことを踏まえた上で、夫婦で子育てをしていくということが必要になってくる。「育メン」という男性の参加はもちろん、言うまでもないことである。
ただ、これまでも述べているように、男性は単眼思考であり、単一的な行動をとるような意識構造になっているので、全面的には参加できない場合が多い。それはどちらが悪いということではなく、不平等ということではなく、役割分担、その根本的なところで、どうしても違ってしまうからである。
もちろん、それを言い訳にすることはできないので、互いに理解しあう、愛情を確認しながら生活するということが重要になる。要するに、夫婦のコミュニケーションが問題であるということ。
「釣った魚は餌をやらない」といった言葉があるけれど、これではうまくいくはずがない。釣った魚(結婚相手の妻)を生かし育てる、満足させるという感情生活における交流が重要なのである。
夫婦では時間を共有することが難しいのは、男性が会社で一日の大半を過ごし、女性は家庭で家事でひとり孤独な時間を過ごすという、物理的な時間が共有できない生活スタイルから言っても当たり前である。
その夫婦が唯一共有する時間が仕事が終わった夜の時間になる。夕食を食べながらともに生活する時間である。
ところが、会社で仕事して、へとへとになった夫は家庭では何もしたくないし、妻は一日誰とも話さないような生活をしているので、せめて愚痴を聞いてほしいという欲求を持つ。
そうすると、疲れている夫はただ自分だけの時間をもちたいので、妻の話は神経をいらだたせる無駄話にしか聞こえない。必然的に聞き流し、真剣な妻を怒らせるという事態になってしまう。
話を聞くというのは耳があればできるのだが、それだけでは騒音であり、よく話を聞いて理解し、応答しなければ話を聞いたことにはならない。その意味で、ただ面倒くさそうに聞き流すという態度は愛情が欠けているとしか見えなくなる。
ここから夫婦別居や家庭内離婚、熟年離婚への道はあっという間に近づいていく。今後のセカンドライフの設計においては、心していかなければならない人生の岐路である。