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事実を映すことがそのまま真実ではない

 空に月が浮かんでいる。

 周囲は高層ビルで囲まれたわずかな空間に、月ばかりは昔の風景と変わらない。

 だが、月が照らす風景には、故郷の田舎で見たときのようなすべてが生きているという感覚はない。

 ただ、人工的なインフラの中で、月が無機質の鏡のように浮かんでいる。

 それこそ映画のスクリーンの一場面のようだ。

 都会の郊外に住んでいると、無機質なビルやコンクリートの商店街、舗装された道路ばかりで、自然からかけ離れた生活をしている気がする。

 快適ではあっても、潤いがない、物質的には満たされているが、精神的にはどこか空虚で寂しさがつきまとっている。

 ならば、人工的な都市から自然の豊かな田舎に移ったらどうだろうか。

 緑にあふれた自然環境、汚染されていない空気、そして、虫や動植物の生き生きとした雑然とした自然は魂にふれるものがある。

 コロナ禍で、仕事もリモート環境になったせいか、ネット環境さえあれば、過疎の地方に拠点を移して、人間らしい生活をしたいというあこがれを持つ人が多くいるようだ。

 そんな人たちが発するネットのユーチューブを見ていると、確かに人間らしい生活のように見えてくる。

 しかし、ユーチューブという映像を通して見えるのは、本当のことを言えば、ごく一部である。

 街角や店舗などにある監視カメラのように24時間垂れ流しの連続した撮影をしているわけではない。

 客観的な垂れ流しではなく、ある時間内で撮影されたものを自然に見えるように再構成したものである。

 その中で使えるものと使えないものとに分けて、視聴に耐えるものにするための編集作業が必要となる。

 点と点をつなげて新しいストーリーとして組み立て、視聴者が飽きないように編集しているのである。

 事実ではあっても、そのままの事実ではなく、点である事実を別な点をつなげて、撮影者の意図が分かるように編集する。

 それは事実の名を借りたフィクション的なストーリー。

 それを事実だと思い込んでしまうと、真実は見えてこない。

 それは映像のもつ一種の限界でもあるだろう。

 われわれは、写真のように映像は事実を映しているので、それを真実なものと信じ込んでしまいやすい。

 撮影者の意図に誘導された事実を元にした物語を真実だと思い込まされる面があるのだ。

 だから、われわれが見ているユーチューブの映像は、事実を切り取ったものであって、その部分に真実はあっても、編集された全体になってしまうと、真実とはかけ離れたプロパガンダとなってしまう可能性をもっている。

 特に、見えるものは事実の表面をそのまま再現するので、その編集という作業によって、事実をもとにした新たな物語、編集者の意図を込めた創作物となってしまっていることに気づかない。

 特に、映像はビジュアルな表現によって見る者の知性ではなく、感情にダイレクトに訴えるために、どうしても喜怒哀楽という感情の反応を引き出す性質がある。

 考えさせるのではなく、泣かせたり怒ったりさせることに主眼が置かれているといっていい。

 ニュースキャスターにもいろいろな人がいるようだが、報道の後に私的にコメントするキャスターには、それがどのような波紋を起こしていくのかまでは考えていない人が少なくないようである。

 思ったことを述べるというのは、自分自身の中に、よほど客観的な価値判断がなければ、発言はそのまま視聴者へイメージを刷り込むことになるだけで考えさせることを停止させている。

 もちろん、中には私的な政治的立場などを浸透させるために意図的に悪いイメージを植え付けるコメントをしている事例もないではない。

 いかにも視聴者の代表のようにふるまうけれど、それは決して大衆と同じ目線、価値判断をしているわけではないのである。

 価値判断はキャスターではなく、視聴者自身がするべきなのだが、映像自体に、そうした思考判断を促すような表現形式ではない構造的な欠陥がある。

 あくまでも、感情を揺り動かすためのメディアなのである。

 その代表が、エンターテインメントの映画であり、テレビドラマであるといっていいだろう。

 映画は観客の心をつかみ、そして感動させなければならない。

 登場人物に感情移入しやすいように、編集され、そして、スリリングなドラマを展開する。

 映画は真実を知るためのものではなく、人を興奮させ、そしてその消費した時間が価値のあるものとして満足するように仕掛けられたフィクションといっていい。

 映画がそうであるように、マスメディアのテレビ報道などは、それが何を意味しているのか、ということを考えさせるのではなく、感情の起伏のままに、喜んだり、泣いたり、笑ったりするように誘導する。

 そこに冷静な判断はなく、ただ感情の中に、いいイメージや悪いイメージが印象として残されてしまうのである。

ヨーゼフ・ゲッペルス(1942年の撮影)

 その意味では、映像はナチスドイツの宣伝相のゲッペルスが、大衆の意識を映像によって動かしたような効果を持っている。

 人の意識をあやつることは難しいかどうかは、かつてゲッペルスによってなされたプロパガンダの例を考えればわかりやすい。

 人の感情に訴えれば、その方向へ人は動いていく。

 それは我が国でも第二次世界大戦時に戦意昂揚のプロパガンダが横行したことを振り返ればよく分かることである。

 映像メディアはビジュアルなために分かりやすい。

 が、それだけその裏にある編集者の意図を読みとり、その危険性に気づくことは難しいメディアである。

 そのことを改めて考えさせられる出来事が最近は多い。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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