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今年の干支・辰年を巡る随想

 新年を迎えるあたり、今年の干支は何か、ということが気になってくる。

 これは私だけの感慨ではないだろう。

 今年は辰年。

 辰とは、龍のことである。

 龍は架空の生き物なので見た人はいない?だろうと思うが、龍のことを扱う書籍などを読むと、説話としては多いが、中国の歴史などにはほとんど出てこないようだ。

 そう断言してもいい気がするが、実際に見たという記録もあるらしい。

 基本的に写真もない時代なので、見たとか見ないとか、その真偽を確かめることはできない。

 ただ本人の証言だけなので、客観的事実というよりは、個人的体験という部類になるだろうか。

 それが幻想であったのか、現実であったのか。

 そのあたりは、まさに他人が踏み入られることができない領域である。

 ことわざにも、「杞憂」というものがあるが、これは古代中国の「杞」の国の人々が空が落ちて来ないか憂えていたことから来ている。

 他国の人から見れば、ばからしいこととしか言えないが、しかし、当の杞の国民にとっては現実であった。

 なぜなら先祖からずっと信じてきていて、それが血脈となって身体を形成しているために、外国人からどういわれようとゆるがない信念だったのだ。

 それこそ信仰的世界といっていいかもしれない。

 「杞憂」ということで思い出すのは、明治時代の自然主義の作家・正宗白鳥の話である。

 白鳥の対談かエッセーかは忘れてしまったが、その中で、古代イタリア半島に住んでいたエトルリア人は死後の世界を現実よりも楽しい世界だと考えていたという。

 そのために、エトルリア人の作った美術品、陶器などには、その考えが反映されていて、死後の世界で楽しく遊ぶ人々の姿が表されていた。

 だが、この楽天的なエトルリア人は、やがてローマ人に征服されてしまう。

 征服者は、前の宗教や信仰を自分たちの宗教に変えさせて支配しようとするから、段々エトルリア人の死後の世界観が変わっていく。

 すなわち、現実的で合理的なローマ人の人生観に影響されて、死後の世界は楽しいものではなく悲しい苦しいものだと変わっていき、それにしたがって、美術品にも悲観的で憂鬱な人々の姿が映し出された。

 幸福で楽観的だった死後の世界の上に、悲観的なローマ人的死生観が上書きされ、エトルリア人が伝統的な死生観を失ってしまったということである。

 これは、ローマ化であり、それによって固有のアイデンティティを失わせ、そこから反抗したりする芽を摘んでしまうというローマ人の政治思想がある。

 反抗や反乱は、いろいろな条件によって起こるが、その1つに宗教や文化や風俗・習俗の共通性がない者同士の反発や怒りがある。

 エトルリア人が楽しい死後の世界観を持っていることは、ローマ人にとっては支配するにあたり、不都合な真実だったのである。

 その意味から、他国を支配するということは、同化政策が重要な支配の方法になることは言うまでもない。

 日本の植民地化の政策に、この同化政策が背景にあったことはいうまでもない。

 これは、西洋列強が植民地を支配するにあたってキリスト教の布教をセットにしていたこととも相似している。

 古代中国でも、戦争の結果、相手のアイデンティティのもとになっている祖廟を占領し、自分たちの信仰している神々の像を、その上の存在として従わせる(格上の神として祭らせる)ということと同じである。

 こうした事実をみると、多神教というのは、決して最初から多神教であったのではなく、それぞれの神を奉ずる部族や国家が戦争を通して征服したりされたりすることで、結果的に多数の神を祭ることになった歴史が背景にあるといっていい。

 その意味では、相手を殲滅するのではなく、同化させることで平和に共存するための政治的な方法でもあったということがよくわかる。

 とはいえ、多神教というのは、主神を中心として体系化されているとはいえ、それぞれの神が目覚めれば自立や独立といった波乱をもっているので、現在平和共存していても、いつかその均衡が破れて革命や戦争が勃発しないとも限らない。

 そうした危うさの上に、政治的な妥協によって平和共存しているために、その均衡が崩れ、思想や違う国家同士が再び戦火を交えてしまう可能性が残っている。

 それはまさに、現在の世界情勢といってもいいだろう。

 ロシアのウクライナ侵攻、パレスチナのテロ組織・ハマスとイスラエルの戦争、そして、いつ戦争が勃発しないかわからない中国と台湾、北朝鮮と韓国など、世界には平和の種よりも戦争の発火点になるような要素が多すぎるといっていい。

 平和な世界はいつ訪れるのか。

 戦争はいつ終わるのか。

 核開発が終わらないのに、どうして平和が成就できるのか。

 共産主義という思想と民主主義国の対立は、解消できるのか。

 もちろん、政治的な交渉によって一時的な平和、安定といったものがあったが、それは一瞬にして崩れてしまう危ういものだった。

 国際連合は、二度の世界大戦を経験した世界の国々が、これならば平和共存が可能になるだろうと設立された世界的政治組織である。

 しかし、そのような対話や政治的な妥協をはかる場にあっても、それぞれの国家のエゴイズム、国益の衝突によって永遠的な妥協と平和構築ができない。

 その無力感を今の国連の活動にみることは、少しばかり不当であるかもしれないが(国連によって多くの問題が良くなっていった例もある)、やはり根本的に国連の改革、国益を超えた世界観、思想、そして、国家のレベルのナショナル・ゴールではなく、グローバル・ゴールを目指す新しい組織の誕生が望まれるのである。

 今年は龍の年。

 龍は、地上に生きた実際の生き物ではないために、それらの動物がもつ個性や能力、限界を超える存在でもある。

 十二支の中になぜ龍という架空の生き物が入ったのか(同じ形態のヘビが入っているのにも関わらず)、そのあたりに人類の平和を願う古代の人々の知恵、強いて言えば神々の啓示があったのかもしれない。

 そう考えたいほど、龍は不可解である。

 かつて、古代中国の孔子が老子に会ったとき(歴史的事実ではないという説が有力である)、伝説的な存在である龍にたとえて、「龍のような人間である」と讃嘆したという話がある(池上正治著『龍の世界』講談社学術文庫)。

 この話は、『龍の世界』によれば、司馬遷の『史記』にもその記述があるという。

 孔子は、「鬼神」という不思議な存在については語らないとしたが、「龍」やその他の霊獣である「麒麟」については語っている。

 その意味で、こうした混沌とした時代に迎える「龍」の年には、平和に結びつく何かが起こるのかもしれない。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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