北原白秋というと、童謡の「からたちの花」「この道」「ペチカ」などを思い出す。童謡詩人というイメージがある。
だが、その文学活動は、文壇にデビューした当時は、デカダンス的な異国情緒にあふれた詩で知られ、詩人の三木露風(今でも口ずさまれる「赤とんぼ」の作詞者)とともに、「白露時代」という一時代を築いた。
その後、短歌などにも進出し、数多くの短歌を詠み、そのほか民謡の「ちゃっきり節」などの作詞にも手掛けたが、歌謡曲の「城ヶ島の雨」などもあり、その作品は多彩な分野に及んでいる。
多くの分野で才能を発揮した白秋だったが、個人の生涯では、幾多の困難を抱え、獄中生活も経験している。
それは、隣家の人妻と恋に落ち、夫から姦通罪で訴えられたためだったが、そのような名声の頂点から突き落とされるような体験を超えて、人間の根底にある真心や童心といったものに目を向けていったといっていいだろう。
その白秋との出会いを詩人の金素雲が「白秋城」(鄭大均編『日韓併合期ベストエッセイ集』ちくま文庫)というエッセーで綴っている。
金素雲は、韓国の詩や童謡や民謡の翻訳で知られ、岩波文庫には、翻訳した『朝鮮民謡集』『朝鮮童謡選』『朝鮮詩集』がある。
この翻訳した詩集『朝鮮詩集』を読んだときの新鮮な衝撃は今でも忘れられないものがある。
韓国語を日本語に移したというよりも、そのまま日本語の詩として何の違和感も覚えないほどの完成度の高い詩集だった。
このように外国語を自在に日本語に移して翻訳した金素雲は、日本の植民地時代、まったくの無名だった。
1920年、日本にわたり、開成中学校夜間部に入り、日本語を学び、そこを中退して現在の共同通信の前身となる帝国通信の記者となった。
その後、詩の雑誌に朝鮮の農民歌謡を発表して次第に認められるようになった。とはいえ、ほとんど知られた存在ではなかった。
その金素雲は、祖国の民謡の素晴らしさを日本人に知ってほしいと思い、書き溜めた原稿の「朝鮮民謡集」を抱えて、どこかの出版社から出したいと願っていた。
だが、無名の金素雲の訳した韓国の民謡集などを出しても、売れないだろうと、どこも断られた。
確かに、日本人の詩集もさほど売れない時代、無名の人物の、しかも当時隣国朝鮮の文学への関心もほとんどない状況で、どこが出版してくれるというのだろうか。
金素雲は途方に暮れた。
だが、彼はそこであきらめはしなかった。きっとわが民族の精神を体現した民謡に感動してくれる人がいるに違いない。
そう信じてつてを探したが、問い合わせた知人友人もあまりいい返事をしてくれない。
無謀だからあきらめたらどうか、といった感じだったらしい。
ならば、どうしたらいいのか。
そこで、金素雲青年は、無謀にも、著名な詩人である北原白秋に会って出版社を紹介してもらおうと決意する。
もちろん、北原白秋とは一面識もない。おそらく門前払いをされるだろう。
そう思って、迷いに迷ったが、えい、当たって砕けろだ、と金素雲は、ある風の冷たい夜(午後9時ごろ)、意を決して白秋邸を訪ねた。
「一面識もない方をこんなに夜遅く訪ねて行くのは失礼だと思いながらも、明日を待てない切迫した心境だったらしい」(「白秋城」)
裏門をたたくと、お手伝いさんらしい若い娘が出てきて、どんなご用でしょうか、と尋ねた。
金素雲は、白秋先生に見ていただきたい原稿があるので、お目にかかりたい、というと、一度娘は引き込んで白秋に聞くと、白秋からの返事は風邪で寝込んでいるので、2、3日後に来てほしいとのことだった。
しかし、金素雲は必死だったので、そうした言葉を断り文句かもしれないと思ったのかどうかわからないが、
「今日どうしてもお目にかからねばならないのです。横になっていらっしゃる所で五分だけでも結構です。もう一度お願いしてみて下さい」
と食い下がった。
その後、何度かの応酬の末に、白秋も根負けして、では、その原稿(草稿)を見せてくださいとの返事を得た。
すると、しばらくしたのち、金素雲は表門から入るように招かれた。玄関に入ると、二階から白秋が5、6人の男女の手を借りて降りて来た。
風邪で寝込んでいたというのは本当のことだった。
金素雲は、応接間で初対面の白秋に会った。
そのあたりの機微は、金素雲の文では次のようになっている。
「応接室で初めて白秋先生に対面した時、彼の口から発せられた最初の言葉が、
『こんな素晴らしい詩心が朝鮮にあったとはねえ』
という感嘆の一言だった。夜遅く訪ねて行った--、そのうえ病床にある人を強いて面会しようとした無礼な訪問者に、先生は不快な気配を少しも見せず、長いこと待っていた知己にでも対するように暖く、讃め言葉と激励を惜しまなかった」(「白秋城」)
その後、白秋は金素雲を出版社に連れて行き、「朝鮮民謡集」出版の仲介を取った。
最終的に、岩波書店から出版されることになったが、その間に紆余曲折があったが、白秋は最後まで金素雲の出版を手助けした。
なおかつ、白秋は金素雲を日本の詩壇に紹介するための会合を朝鮮料理屋で開催することまで手配した。
問題は、この時、最初に「朝鮮民謡集」を出版するはずだった改造社の版を金素雲が出版社ともめて、印刷を待っていた状態の組版を印刷所まで行ってみずから壊したことである。
そのために、改造社から出るはずだった会合の費用は金素雲自身が負担しなければならず、金がなかった金素雲は絶体絶命の境地に至った。
そのとき、何も知らないはずの白秋は、笑いながら「君の気がかりを消す即効薬があるぞ」と必要な現金を渡してくれたという。
金素雲と北原白秋のこの秘話を読むと、心の中が温かくなる。人と人との交流、その縁によって、固く閉ざされた日韓の壁も崩れていくのではないか、という希望を感じさせてくれるである。
(フリーライター・福嶋由紀夫)