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固有種と外来種という考え方について

 最近、日本古来の動植物の固有種という話題をよく聞くようになった。

 絶滅が危惧される固有種を守ろうという動きである。

 特に、テレビなどで池の水を全部抜いて、そこに生息していた外来魚と日本固有の魚や生き物を分けて、固有種だけを放流するという番組を見かける。

 それだけ外来種の繁殖によって、日本本来の固有種が脅かされているという危機感があるのだろう。

 それ自体は、自然保護、環境保護などの観点もあるので一概に悪いとは思わないが、しかしこうした区分け、分類の仕方というのは若干疑問を感じることもある。

 というのは、近現代の外来種は追跡できるのだが、日本の歴史を遡っていくと、こうした分類が当てはまるかどうか、微妙な問題があるからである。

 もともと日本の固有種といっても、アジア大陸と陸続きになっていた時代は、外来種や固有種という区別はなく同じものだった。

 それが日本海という海によって分けられて、島国になってから、自然環境に適応するために独自の進化や変化をし、大陸の動植物とは別な種として育っていった。

 そうした点から考えれば、ある時代まで遡って固有種という概念を科学的に分析し、確定することは難しくはないだろう。

 だが、そのような固有種は孤立的に存在していた面もあるけれど、大陸との人的交流が船を介在してあったことを考えれば、そうした渡来の動植物の種と交配したり混じったした可能性は否定できない。

 遺伝子にまったく外来のものがないという研究をし、それで固有種を決めるならば、問題はないが、それは不可能に近いのである。

 日本の歴史をひもとくと、教科書などでは、石器時代あたりから始めているが、その後の縄文時代、そして弥生時代へと移行するときに、大陸や朝鮮半島からの渡来人がやって来たことが記されている。

 人がやって来たということは、何も持たない裸の人間がやって来たということではない。

 日本列島に済むために事前に生活用具や食糧などを携えてやって来たのである。

 そこには、日本の土壌に植えた食べるための野菜や穀類などの種もあっただろう。

 あるいは、家畜を運んできたかもしれない。

 そうした動植物が日本の土壌に根付いて、野草化したり現在の外来魚にように何らかの事情や事件によって自然に逃げ出して野性化したということも考えられる。

 いずれにしても、人間の生活、営みが集落や村を作っていくうちに、そうした動植物の交配や交雑が行われた。

 そうしたことを考えれば、固有種という概念をどのような基準で考えるかによって、ずいぶん変わってしまうだろう。

 むしろ固有種を厳密に考えてしまうと、動植物というのは寂しいものになってしまう可能性もある。

 その意味では、縄文時代あたりから固有種というものを考えるのが無難かもしれない。

 だが、それにしても、なかなか分類は難しいだろうと思う。

 要するに、固有種といっても、まったくのオリジナルというものではなく、ある進化や孤立の過程の中で、変化していった種ということが言えるのではないか。

 人類にしても、五色人種というけれども、実際には、同じ人類の先祖から生まれ、そして進化や自然環境の違いによって、まったく違った姿になってしまったから、そう区別されるだけである。

 もともとに還れば、同じ人類であり、差を考えるよりも共通性が多いという点を認めることができる。

 その意味では、固有種の人類というものが成立しないように、動植物の固有種だけを取り上げて、外来種を根絶するような考え方は、一種の極端な考え方であり、悪く言えば排他的な思考であるといっていい。

 固有種が大切なのはいうまでもないが、同時に外来種を一方的に排斥するのではなく、両者の程よい共存共生こそ重要ではなかろうか。

 もちろん、絶滅が危惧される固有種の保護は必要なことはいうまでもないけれど。

 両者のバランスや共存共生するためのプランが、求められるのである。

 それは人類の共存共生にもつながることでもある。

 とはいえ、こうした考え方は、一種の理想論であって、やや観念的な机上の空論という批判もあるかもしれない。

 同じ人類といっても、民族や宗教、国家などの現実的な枠組みでは、その違いによる戦争や紛争、様々な対立なども生まれているからである。

 現実の衝突をどうするのか。

 それは同じ人類だからという空想的な平和論では解決できない様々な事情が介在していることも計算に入れなければならない。

 政治や経済格差による不平等などの現実の問題を解決する政策を実践することが求められるのである。

 現在行われているロシアによるウクライナ侵略などは、こうした現実な課題であり、それを解決するには、対立の原因を取り除き、そして外交や話し合いによる交渉が必要であることは間違いない。

 最終的には、和解と平和共存を求めての会合、話し合い、交渉という政治的なプロセスを通しての解決だが、それは今のところ難しい状況である。

 血を流している現実は、直視しなければならない。

 平和を説くだけではなく、戦争を終わらせる努力が必要である。

 もちろん、現実に武器による戦闘が行われ、多くの犠牲者を生み出しているという現実がある。

 戦争が無くならないのはなぜか。

 なぜ人類の歴史は戦争ばかりなのか。

 その事情を鑑み、現実的な対応をしなければならないが、それがまた、武器と武器による勝敗を決するものであってはならない。

 平和は必ず訪れるという希望を持って生きること。

 それは固有種と外来種を分けるような差別や対立を生むものではなく、全人類のもともとの姿に還るような思想でなければならない。

 そして、そのような共存共生の思想、それがこれからの希望の思想でなければならないと思うのである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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