記事一覧

夢についての断片的な考察

 

 私は夢をよく見る。毎日といっていい。だが、目覚めた時、ほとんど忘れている。

 正確に言えば、目覚めのとき、夢の余韻を引きずっているのだが、その後、すぐに忘れてしまう。

 夢は、漠然としたストーリーのないものもあれば、妙に鮮やかで、場面がくっきりとしたもの、恐怖を感じるもの、未来の啓示のようなもの、そして、行ったことがない場所なのに、どこか昔から知っているような既視感にとらわれたり、空を飛ぶような空想的なものなどがある。

 夢に何等かの意味があるのか、眠っているときの脳の中でこれまで蓄積された知識や感覚や刺激の断片が交錯したりして夢という作用をもたらすのかはわからない。

 けれど、夢をよく見る人の中には、枕元に手帳などを置いて忘れないうちに、メモしておくという習慣をしている人がいることは知っている。

 知人にも、こうしたメモを書いている人がいて、その夢の記録の一部を見せてもらったことがある。

 そこには、上記に記したような夢の出来事が脈絡もない断片として記され、論理的な組み立ても何もなく、ただガラスの破片のような断片がばらまかれている印象だった。

 本人も、意味を解釈するという気はないようだが、ただ夢のイメージが自分の人生における何らかの象徴や意義を秘めているのではないか、と考えている節はある。

 もちろん、夢についてはフロイトの「夢判断」という名著があり、その多くが幼児時代の性的抑圧からくるリビドーなどという解釈があることはよく知られている。

 心理学による分析は、どうしても、未知のことを幼児体験などに原因を求める合理的・理性的なものを着地点としているのである。

 だが、そうした事情をひもといてみても、それだけではない、何か自分の知らないものが働いているのではないか、と思う気持ちを否定することはできない。

 過去の歴史においては、夢はそんなリビドーのような心理的抑圧が生み出すものではなく、外側から神霊が働き、何かを知らせる前兆のようなものと考えられていた面がある。

 たとえば、旧約聖書創世記の中に夢解きで有名な古代エジプトで総理大臣にまで上り詰めたヨセフの話がある。

 ヨセフは無実の罪で牢獄に投獄されていたが、そのころ、エジプトの王が夢を見て、その夢の意味を解き明かすことを願い、多くの者に夢解きを望んだが、誰もその意味を解釈できずに、最終的にヨセフが鮮やかにその意味を解き明かしたというエピソードである。

 夢はそのように、神霊が何等かのメッセージを伝えるものとして、古代人は考えていたといっていい。

 日本でも、鎌倉時代の高僧の明恵上人が夢を克明に綴った記録『夢記』を残している。

 明恵上人は、夢に深い意味を感じていたらしく、一部読んだ限りでは、具体的な場所や人名など、事実の記録であるかのような体裁をしていたことを覚えている。

 だが、最終的に、夢をどのように解釈するか、という問題は非常に難しい面があるといっていい。

 エジプトのヨセフの夢解釈は、奴隷の立場から一躍一国の総理大臣にまで抜擢される効果があったが、それは、古代人が夢を神霊の予言、告知という面で神秘的なものとして考えていたからである。

 そこまでいかなくても、夢によって、ご利益を得たという話を聞くことは少なくない。

 たとえば、宝くじの番号が夢に出たり、競馬のレースが的中する夢を見て、その通り買ったら当たったという話もある。

 その中には、私自身が当人から直接聞いた話もある。その夢とは、老人が出てきて、ニコニコしながら宝くじの番号のようなものを教えてくれたというものだった。

 そのとき、私は夢がそんなご利益をもたらすものならば、見てみたいと一時思っていたが、ほとんどそんな機会はなかった。

 おそらく自分の利益を中心として行動すると、必ず失敗するというような法則が夢にもあるのかもしれない。

 よく占いなどで、人の運命を的中させるのに、自分の運命を当てたり、変えたりすることはできないという話を聞くが、確かにそのようなものがあるのだろう。

 私は夢についてはあまり考えないようにしているのだが、時々、細部まで鮮やかなリアルな夢を見ることがある。

 ふだんはすぐに忘れてしまうのだが、ある一場面として記憶の倉庫に張り付いているのだ。

 それは、特に私の趣味である古本にかかわっていることが多い。

 今でも、記憶に焼き付いてるのは、土手のようなところで、本棚がいくつも放置されていて、その棚におびただしい本が詰め込まれていて、捨てられている状態だった。

 私は何か欲しい本はないかと目を凝らすと、なんと今では手に入らないような本のタイトルが背表紙に浮かんでいる。

 それだけではない。

 書名も著者もまったく知らないのだが、貴重な本であるということだけは心の中に感じる本が並んでいるのである。

 その装丁の細部、質感、手垢のついたページなど、まるでそこにいるかのように、感じられて、思わず歓喜にあふれてしまう。

 だが、それは夢なので、突然、その世界が断ち切られ、現実に引き戻されてしまう。

 このたぐいの夢はよく見ていて、町の古本屋に入って、均一本の中に掘り出し物を見つけたり、古本屋のおやじの私室に案内され、そこで、掘り出し物を見つけるというパターンなどいくつかある。

 文学作品の中でも、夢が重要なキーワードになっているものがある。

 芥川龍之介の短編「魔術」は、インド人の魔術師と知り合った主人公が、熱心に頼んでその手品を教えてもらい、友人と全財産を賭けて勝負をし、思わず誘惑に駆られて手品で自分が勝つようにしたとき、実はそれが一瞬の夢だったというオチで終わる。

 これは、中国の古典、道教の荘子の話にある「胡蝶の夢」に似た構造で、人生の栄達を目指した青年が、人生の栄耀栄華をきわめて最後には死ぬという一瞬の時間に夢を見て、人生はむなしいものと知り、出世をあきらめて故郷に帰るというもの。

 要するに、人生の本質は身近なところ、正直に生きる地道な普通の生活にあるという教訓めいたものといっていい。

 そういえば、気になる夢の話を書いている作家がいたことを思い出した。

 プロテスタントの有名な作家の三浦綾子である。三浦綾子は日本の敗戦によってニヒリズムな人生観に陥ってしまうが、キリスト教の信仰によって救われたことを記している。

 ただ、キリスト教の無力な点を自覚し、社会改革や救済には、社会主義的な活動の意義も認めていたところがある。

 もちろん、作品は無償の愛や絶望的な世界を通して悪を描き、悪が滅びない現実を通して、だからこそ絶対的に神の救いが必要であるということを込めて作品を世に送り出したことは間違いない。

 その三浦綾子が見た夢についてエッセーで書いている。

 それは、学校の校庭のようなところで、三浦綾子が共産主義の生みの親であるマルクスを背負って歩くという夢である。

 唯心論のキリスト教を信じる三浦綾子と無神論のマルクスが仲良くおんぶしているという夢は、まさしく共産主義の背景にキリスト教があったということを象徴しているような気がして忘れられない。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

関連記事

コメントは利用できません。