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太宰治、田山花袋、ドストエフスキーなどを巡って

 確か太宰治だったと思うが、小説を書くということは、人の通る道で裸になるぐらいの覚悟がなければ本物ではない、ということを言ったという話を読んだ記憶がある。

 正確な記憶ではないので、表現がやや違っているかもしれないが、いずれにしても、羞恥心をさらけ出してしまうような大胆な覚悟がないと本物の作家にはなれないというほどの意味だろう。

 現在ならば、もしそんな挙に出たら犯罪者となってしまうけれど、当時はそれがそんなに異常な言葉とは思われなかった面がある。

 このような言葉の背景には、これまで日本文学がたどってきた特異とも言うべき文学的な道筋がある。

 特に、自然主義文学の影響とその延長に生まれた私小説というものを考えなければならない。

 自然主義は、フランスの自然主義作家のゾラあたりから生まれたリアリズム、人間を精神的な衣服から剥がして素裸の真実を描こうとしたことなどから始まる。

 人間の性質を階級や外側の衣装ではなく、一個の肉体として科学的な観察をもとに、ある意味は神聖な部分をはぎ取り、獣性をもった動物的な側面を描こうとした。

 どんな外面的には、紳士的に見えようとも、内面には動物的な欲望があって、それを押し隠して生活している、だから、それをはぎ取って、本当の姿を見ようというリアリズムである。

 このような見方が生まれたのは、もちろん、西洋文明を形成してきたキリスト教文明の衰退、世俗主義の台頭から来ている。

 神の存在というものが、疑われてきた時代の産物でもあるだろう。

 人間にキリスト教的な意味での「原罪」があるとすれば、その罪から逃れるためには教会に行き、罪を告白しなければならない。

 罪の許しを得て、ようやく安心して普通の生活をすることができる。

 ところが、その告白相手の神の存在、信仰がゆらぎ始めてしまうと、どこにその苦悩やどす黒い思いを解消していけるのか。

 その問題を見つめていくと、どうしても、動物的な人間という皮の内面の精神を描かないと、済まなくなってくる。

 理性と獣性、欲望と倫理との相克で引き裂かれた人間の姿、それこそが真実ではないだろうか。

 西洋における自然主義には、そうした神から離れた人間の苦悩、ある意味ではエデンの園という楽園から追放されたアダムとイブの物語が背景に横たわっている。

 ゾラの描いた自然主義のリアルな人間の姿は、理想的な生活から失墜した人間たちの物語であり、罪を得た人間のリアルな生き方の追求といっていいだろう。

 だから、「告白」というのは、失われた神への訴えでもあるかもしれない。


 ロシアの文豪・ドストエフスキーの『罪と罰』には、殺人を犯した主人公のラスコーリニコフが、追い詰められて、最後に娼婦のソーニャに「告白」し、そしてロシアの大地に接吻する姿が描かれている。

 キリスト教の背景がない日本人ならば、このことで、ラスコーリニコフの救い、再生が語られていると思うかもしれない。

 だが、救いはある、というのは罪を自覚して悔い改めて神に帰依しないかぎり、難しいだろう。

 ラスコーリニコフは悔い改めているのか。

 確か、そのような議論もあったような記憶があるが、私が読んだ読後感では、ここでは真の意味で悔い改めてはいない印象を受けた。

 ラスコーリニコフは、自分の選民思想の敗北を感じてはいるが、それは自分がナポレオンのような選ばれた人間ではなかったという苦い自己認識からの敗北であると感じるのである。

 すなわち自分はエリートではなく、無数の大衆の1人に過ぎなかったという思い。

 そのためにこの世の法律によって犯罪者として罪には服さなければならないが、それは罰ではあるけれど、それによって自分が再生するというまでの精神的な回心を意味はしていないのではないか。

 だからこそ、『罪と罰』の延長上に、『カラマーゾフの兄弟』が書かれなければならなかったのである。


 『カラマーゾフの兄弟』のテーマは、続編が書かれる予定でドストエフスキーの死によって失われたが、確かそのテーマというか、タイトルは、「偉大なる罪人の生涯」のようなものだった。

 研究者は、この偉大なる罪人の主人公をカラマーゾフ兄弟の三男、アリーシャに想定し、その堕落と再生の物語と捉えられている。

 そのあたりは、研究者ではないのでわからないが、ただ、この三兄弟は、ある意味ではラスコーリニコフの分身であるという気がしている。

 単純に表現すれば、シベリア流刑になったラスコーリニコフが三人に象徴されるドミトリーの世俗主義、イワンの知性主義、そしてロシア正教の熱心な信徒のアリーシャという人格に分けられているといっていいだろう。

 とはいえ、詳しく論じるまでの素養はないので、改めて神と人の問題が彩っていた西洋文学から、神への信仰がゆるやかでアイマイな日本文学の問題に帰れば、日本的な自然主義リアリズムとは外面の裏側、汚く渦巻く内面の世界を暴露するという手法となってしまった面がある。

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 田山花袋の『蒲団』などは、まさにその代表で、自分の醜い欲望を切々と描いたことで、自然主義的なリアリズムの方向性を、真実を描くというよりも、ただ社会的制裁を覚悟して暴露するというスキャンダルリズムに陥ってしまったといっていい。

 西洋文学の自然主義においては、善と悪の相克、背景にある神に対する内面的な相克が、日本の自然主義においては、暴露主義というパフォーマンス的なものに変質し、その暴露の種が無くなると、今度は露悪的に演出したり、自己の周辺の心境や出来事を描く私小説へと変質していったと言えるだろう。

 作家の久米正雄は、かつて、ドストエフスキーやトルストイの文学は偉大だが、単なる通俗文学に過ぎないというようなことを語っていたが、結局、リアリズムを日本的な暴露主義的な表現形式であると捉えれば、そのような言動にもなっていくことは間違いない。

 ありのままの事実を書くことがリアルで、虚構であるフィクションを書くことは通俗主義という通念は、かなり日本文学の呪縛として来た。

 その意味で、太宰治の作家になるには人前で裸になる覚悟でないといけないという述懐は、このような日本文学の通念から生まれたことから来ていることが分かるのである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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