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宗教について思うことなど

 究極のところ、人間世界における様々な制度や国家、法律は、今では個人の自由や権利を制限する制度のように思われているが、その根源には、人間が幸福になるためのインフラ的な性質であるといっていいかもしれない。

何のために、国が生まれたかといえば、財産ともいうべき物(古代では穀物などの食料、そしてそれを生み出す土地や耕す働き手の労働のための人間)を他の国家などから守るためである。

力を持たなければ、他の国や勢力から攻撃され、食物も人も奪われ、奴隷となっていくからである。

富の偏在がもたらす不平等感や自分の命をつなぐために、豊かな地域からそれを戦争によって略奪するというのが、人間の歴史における戦争と平和の問題といっていいだろう。

寒かろうが暖かろうが、地球規模で食料が平等に生産され、収穫され、他から奪わなければならないような環境が無ければ、決して争いが無くなるとまではいかないが、戦争や紛争の多くが減少して、平和な時代が占める時期は増えるだろうと思う。

もちろん、こうした環境的条件にすべての原因があるわけではないことは言うまでもない。

そこには、環境的条件だけでは解決できない、あるいはわからない原因が存在しているからである。

その一つが人間の心の闇の問題である。

人間は心の中にある欲望、すなわち嫉妬や恨み、憎悪などの感情によって喧嘩したり傷害事件や殺人事件を起こす。

これは富の偏在、食料の問題ではなく、感情の問題になっていく。

たとえば、男女の問題、不倫などは、どんなに物質的に満たされてようが、人間の心の中の欲望に火をつけ、駆り立てていく。

そして、時には殺人事件にまで発展する。

そのような人間の欲望がなぜ起こり、理性ではだめだと思っていても、そのブレーキが利かずに暴走してしまうのだろうか。

そのあたりはまだ解明できない領域になっているといっていい。

ただ、この精神の闇の問題について解決しようとしたのが、宗教であることは間違いない。

宗教といっても、シャーマニズム的なものから、素朴なもの、精霊信仰、先祖崇拝や高等宗教など色々あって、一概にこうだと決めつけることは難しいのだが、基本的にはこうした人間の欲望の暴走が不幸を生むために、それを抑制し、邪な欲望によって身を亡ぼすことがないように、幸福になるための道を指し示しているといっていいのではないか。

要するに、宗教は人間が幸福になるためのものなのである。

だが、宗教というと、日本の場合はどうしても、どこか弱い人間がすがりつくご利益信仰というイメージを思い浮かべる人が多い。

だから、無信仰無宗教というのが当たり前だと思っていて、世界でなぜキリスト教やイスラム教などの宗教がはびこっているのか、なぜ科学的に証明されない迷信をアメリカやヨーロッパなどの先進諸国でも信じている人が多いのか、不思議に感じているといっていい。

文明というのは、こうした宗教を否定するものだと思っているからである。

なので、海外旅行をして無宗教だというと、むしろ非文明的な確固としたものをもっていない、理解しがたい民族と思われてしまう。

神を信じていない人間は、それこそ何をやらかすか、わからない不気味な存在として受け止められるのである。

宗教は科学の下位にあって、そこから上昇していくのが文明の進歩だと思っているからである。

文明が進めば、宗教は滅んでいく、無くなっていく、なぜなら迷信だから……というのが日本人一般の認識ではないかと思う。

では、その日本人が文明を享受して、科学的な生活をして、それで宗教が無くて生活しているのか、というと、そうではないだろう。

宗教をある教団の教義を信仰する集団と考えるならば、確かに無宗教といっていいかもしれない。

が、その実、正月やお盆、クリスマスなどを祝う習俗の背景には、何か見えないものを在ると感じる精神的なものが存在していることは間違いないように思えるのである。

このような日本人の意識を縛っている精神を、山本七平は「日本教」と呼び、日本人はその教徒であると断じている。

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要するに、なになに宗教という教団ではなく、日本全体をおおう見えない空気、その雰囲気を醸し出しているものが、日本人の「宗教」であると言えるだろう。

宗教が幸福を求めているように、「日本教」の信者である日本人も、やはり幸福を求めて宗教的なものを信じているといっていいのではないか。

(フリーライター・福嶋由紀夫)

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