宮沢賢治について考えると、まず思い出されるのが有名な「雨ニモマケズ」という教科書にも載っている言葉である。
「雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ/慾ハナク/決シテ瞋ラズ/イツモシヅカニワラッテヰル/一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ/アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ(略)」
この言葉を見て、最初に感じたのは、堅苦しい道徳を説く人というイメージだった。
どこか人のためにストイックに生きようとした宗教者のようである。
小学校の校庭などに設置された薪を背負って勉強する道徳家の二宮尊徳のような人を思い浮かべたものだった。
いつこれを読んだかは記憶に定かではないが、とても詩としても教訓としても読めなかったことを思い出す。(確か全文は掲載されていなかったような記憶がある)
これがどうして有名なのか、当初理解できなかった。
どこか、こうならなければならないというような押し付けがましさや説教的な道徳臭のうさん臭さを感じたものだった。
学校の教師が、『銀河鉄道の夜』『注文の多い料理店』『風の又三郎』などの作品とともに、その生涯を紹介するのを聞き、ようやくなるほどと思ったものの、どうしても堅苦しい道徳家としてのイメージがつきまとい、なかなか宮沢賢治の世界に踏み込みたいという思いにならなかった。
そんな私が、宮沢賢治を再発見したのは、いつだったかは忘れたが、おそらくは『銀河鉄道の夜』などの童話、詩集の『春と修羅』などを読むようになってからだろう。
特に、妹の死を詠んだ「永訣の朝」の畳かけるような方言を使ったリフレインは、同じ東北弁とはいえ、理解できなかったが、意味を知らなくても、賢治の苦悩がしみ込んでくるような切迫した心情が伝わってくる。
「けふのうちに
とほくへ いってしまふ わたくしの いもうとよ
みぞれがふって おもては へんに あかるいのだ
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)」(以下略)
「あめゆじゅ とてちて けんじゃ」というのは、方言で、「雨雪を取ってください」という意味である。
賢治の妹は、死の間際になって、喉を潤おす雪を取ってほしいと願ったのだが、それは賢治の心に鉄砲のように撃ち込まれ、「わたくしは まがった てっぽうだまのやうに/この くらい みぞれのなかに 飛びだした/(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)」。
この妹の死は賢治の創作活動に強い影響を与え、『銀河鉄道の夜』や『ひかりの素足』などの作品の精神的な背景になっている。
そのような死を身近に見たせいかどうかはわからないが、賢治は宗教的な世界を希求しながら、創作活動に励み、また農民の生活向上のために活動した。
「雨ニモマケズ」という言葉は、こうした賢治の信念の自己に課した自戒の言葉であるとみることができる。
なぜなら、「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と締めくくられたこの「雨ニモマケズ」の手帳の最後に書かれているのは、有名な話でもあるが、法華経の祈りの言葉であるからだ。
「南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩」
これはまさしく賢治は法華経の信徒として、「雨ニモマケズ」という祈りの言葉として記したことを示している。
しかし、どういうわけか、賢治の本質であるこの祈りの言葉が省かれてしまい、「雨ニモマケズ」という人当りのいい教訓のような言葉だけが浮き彫りにされてしまった。
そして、口当たりの言い教訓めいた理想主義、そのさなかに賢治は倒れてしまったという悲劇的なイメージが出来上がったといえる。
信仰者としての賢治ではなく、ヒューマニストの賢治が作り上げられてしまったのは、宗教色を嫌った文学者などの意図的な賢治崇拝があったからかもしれない。
賢治から宗教色を取り除いてしまうと、人間愛に満ちた社会活動家、あるいは社会主義的な文学者というイメージとなっていくのである。
ヒューマニズムに満ちた文学者というと、博愛主義や貧富の差を無くすという社会主義と接近していくだろう。
賢治が社会主義に関心を抱いていたことは、「生徒諸君」という詩の中に、
「新たな時代のマルクスよ
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成に変へよ」
という呼びかけがあることでも、うかがい知ることができる。
賢治自身が、そこにどのような意味を込めたのかはわからないが、賢治自身はたんに理想主義的な人物ではなく、肥料の研究やその他農民の生活向上のための実践的な活動をしてた。
が、それが一面、実社会におけるリアリズム的なものがなかったために空回りしている面もあった。
もう一方、賢治は法華経を中心とした民族主義的な田中智学の国柱会にも所属していたことから、軍国主義的な右翼運動家というような見方をされることもある。
確かに、賢治はただの祈るだけの信仰者ではなく、実践的な社会改革を目指していたことは間違いない。
その意味では、民族主義者という側面もあった。
しかし、これもまたそういってしまうと、賢治の本質を見逃してしまうだろう。
要するに、賢治は法華経の宇宙観をもって、全世界の人民の幸福と安寧を願っていたのであって、それが軍国主義的な政治活動とは一線を画していたのである。
そのことを示すのは、賢治が目指していた理想、主義、信念を記した『農民芸術概論綱要』序論に記された次のような言葉である。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは
個人の幸福はあり得ない」
このような信念は、政治的な信念ではなく、宗教的信念である。
そして、これは政治イデオロギーの社会主義や共産主義とはまったく関係がない賢治の宗教心からの祈りである。
(フリーライター・福嶋由紀夫)