大学の卒業論文は、大学紛争の余燼がくすぶる頃に、担当の教師に提出し面接を受けた。
大学では、国文学科だったので、近現代文学を専攻し、卒論には文芸評論家の小林秀雄を選んだ。
不明 – 1951年刊行『私小説論』(創元文庫), パブリック・ドメイン, リンクによる
作家だと、卒論を書くためには、全集を読みなければならないが、だいたいが巻数が多いので、読む前に心が萎えていた。
その点、小林秀雄の全集はそんなになかったので何とかなるだろうと思ったことと、全集を読まなくても何とか卒論を書けるだろうと思っていたからだ。
今から考えると、無謀な話だったが、モラトリアムで、無気力で無関心、無感動の三無主義の1人だった私は、なるべく努力しなくて済む方法を考えていたのだった。
当時、私は留年を繰り返し、あと1年ほどしたら、退学か除籍か、辞めなければならない瀬戸際にいた。
40数年前のことで、私はモラトリアム、有体に言えば引きこもりで大学紛争でロックアウトで閉鎖していることをいいことにして、7年ほど学生をやっていた。
もちろん、授業がボイコットになり、レポート提出することで学校へ行かなくても、試験代わりになっていた時代だ。
試験を受けたことはほとんどなくて、授業に出席したことも数えることしかない。
出席したのは、学校教師の免状を得るための授業と必須授業だった体育の授業。剣道を選択して、その時ばかりは学校へ行った。
残念ならが、教師の方は試験がダメで取得できなかった。
まあ、言い訳をしてみれば、その担当の老教授が試験は簡単で参考書も持って来ていいし、授業に出ていれば誰でも受かるといった御託を信じて、何の準備もしなくて試験に臨んだらまったく別な内容でお手上げだった。
白紙で提出し、あえなくダメになったのだが、この授業は珍しく欠席などしなかったので、私は老教授に騙されたような気分をしばらくもっていたことを覚えている。
自業自得なのだが、ほかの授業が出席ゼロでも単位をもらっていたのが多かったので、それだけこの件が印象的だったのだろう。
そのほか卒業するために取らなければならない単位に語学があった。
どういうわけか、第一外国語に英語ではなくフランス語を選択したので、単位取得するのには苦労したといか、恥ずかしい思いをした。
というのは、まったくフランス語の授業を受けていなかったので、一年間で初級と上級の単位を取らなければならないという状況になってしまった。
フランス語のスペルを見ても、どう発音するかさえわからない。
まあ、出席すれば、なんとか単位をもらえるだろうという安易な考えで出席したことを記憶している。
その最初の授業で、フランス語の教師が、「みんなの実力が知りたいので、教科書の一節を朗読すること」という話になった。
そこは自己紹介するところじゃねえの、と思って心臓がバクバクするほど焦った。
いっそのこと、教室から抜け出そうと思ったけれど、そこは大教室ではなく、小さな部屋の講義室だったので、後ろのドアから逃げ出すこともできない。
学生たちが、次々に立って、それぞれフランス語で発音しながら朗読する。
そんな姿を見ながら、どうこの危機から脱出するか、ただ黙って立っているか、謝って頭を下げるか、などなど埒もないことを考えた。
だが、どうあがいても、自分の順番が来た。
「どうぞ」
先生の言葉が死刑宣告のように聞こえた。
私は、覚悟を決めて発音した。
すると、あたりがシーンとなって朗読部分が終わっても、沈黙が支配した。
どのくらい時間が立ったろうか。
しばらくすると、先生が声を発した。
「それは英語読みですね」
それだけだった。
穴があったら入りたいという表現があるが、まさに、その時はそんな気分だった。
そんな感じで、1年間の単位を奇跡的というか、大学紛争の余慶があって、何とか卒業するため単位取得の見通しが立ったのである。
後は、卒論だけだった。
小林秀雄を題材にしたけれど、特に新しい視点があるわけではない。
私は以前、同人雑誌に発表した小林秀雄論を改稿して、枚数を増やし、卒論らしい体裁を整えて提出した。
そして、面接の日となった。
担当の教師は、実は教授ではなく、講師だった。
その人は、万年講師だったので、大学の授業を担当するだけでは生活できないので、予備校の講師などもやっていた。
近代文学をやっている人間は変わり者が多いが、その先生も例にもれなく、自己韜晦(とうかい)する性癖と自分だけが物事を知っているというような「フフフ」と低い声で笑う性質があった。
面接は、ふつうならば、担当の教師が壇上に立ち、卒論の評価を受ける学生が席に座ってそれを聞くというのが当たり前だったが、この教師は逆に自分の方が学生のように席に座っていた。
「フフフ。いつもはぼくが壇上で講義するので、今回はぼくがここで講評をしましょう。フフフ」
言っていることが分からないので、戸惑っていると、教師は私の卒論をめくりながら、
「フフフ。これはね、君ねえ。フフフ」
などとつぶやくようにしている。
講評を言うといった感じはまったくなく、しばらくフフフと言っていたかと思うと、「わかりました。帰っていいですよ」と述べただけだった。
もちろん、どうであったかの批評も、評価されたのかどうかもまったくわからない状態だった。
当惑したまま教室を出たが、果たしてどうだったのか。
その先生の評価が分かったのは、成績表を見てからだったが、ABCDで言えば、Cで低評価というか、中から下の評価だった。
私は自分の書いたものがどう批評されるのかばかりに気になっていたので、そっけない面接と低評価に鼻白んだ。
大学で学問を学んだということはあまり感じていないが、この卒論の担当の教師の「フフフ」とい笑い声だけは今でもよく思い出す。
(フリーライター・福嶋由紀夫)