幕末の英傑というと、人気のあるのは、坂本龍馬だろう。
国民的作家の司馬遼太郎の筆によってよみがえった日本の青春時代そのものを体現した英雄は、天空をゆく雲のように時代的なヒーローとなっている。
おそらく龍馬を知った多くの人々は、司馬史観に彩られた小説に血わき肉躍る感動を与えられてファンになった人が多いはずだ。
最近では、龍馬の実像は、それほどではなかったのではないか、という歴史家の研究もあるようだが、時代を動かすカリスマ的なアイドルというものは実像そのものよりも、巨大化し、そして、多くの影響を与えていくのは仕方がないといっていい。
そして、伝説化されていくのも、その背景に悲劇的な死を遂げたという日本人好みの判官びいき的な心情文化がある。
成功して華々しい活躍をした人物よりも、途中で悲劇的な死を迎えた英雄たち、たとえば判官びいきの源流となった源義経、成功した徳川家康よりも織田信長、西南戦争で敗れた西郷隆盛などにシンパシーを感じるのである。
その意味では、本当の意味で時代を動かした成功者の方は不遇な扱いを受けている。
たとえば、幕末の時代回天の原動力となった大久保利通のような実務家は、一般的な人気があまりない。
また、激動の時代を死なないで生き延びた人物、勝海舟なども、その政治的手腕と出処進退に対しては、見事というほかないが、なかなかその真価を認められることはなく、福沢諭吉などには批判されているほど。
その勝海舟とともに江戸城無血開城を成し遂げた人物が幕末から明治にかけて活躍した山岡鉄舟である。
江戸城無血開城は、勝海舟の功績ばかりが称揚されているが、実際には、その意を受けて使者となって、敵陣に乗り込み、生死を投げ出した鉄舟の働きがなかったならば、実現は難しかっただろう。
西郷隆盛は、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり」という言葉を残しているが、まさに、その言葉を体現している人物が鉄舟であった。
鉄舟は死ぬつもりで、西郷に談判したのだった。
だからこそ供もつれず、ただ一機で、東漸してくる官軍の部隊を逆流して西郷に会いに行った。
その決死の覚悟に動かされた西郷は、江戸城無血開城を決断する。
もともと西郷は、司馬遼太郎によれば、革命思想を持ち、日本全国を焦土化して、そのゼロの地点から日本再生を考えていたという。
その象徴となるのが旧態依然の象徴だった江戸城だった。だから、江戸市民を巻き込んで、戦場とするつもりだったのである。
それは、幕末の時に、薩摩藩が江戸で行った幕府を挑発するための火付けや強盗などのテロ活動をみればいい。
それを指示したのは西郷だったという話がある。目的のためには、手段を択ばない非道なこともできるのが西郷だった。
最後には、そうした非情さと人を無限に包容する懐の深さがあり、その矛盾した姿が魅力でもあり謎でもある。
もちろん、これは司馬史観の推測であり、真実であるかどうかは、もはやわからないといっていい。
西郷や鉄舟に対して、海舟は武士であると同時に政治家でもあったので、あらゆる事態に対処して布石を打ち、安易に死を選ばず、何とか事態を打開する方法を考え抜いた。
そして、それを行動に移し準備した。
鉄舟に無血開城を託すると同時に、その策が破れて官軍が江戸に進軍してきた場合に備え、江戸を焦土化したゲリラ戦を考えた。
やくざや町火消しなどを動員して、各所に配置して備え、事が起これば、町中を炎まみれにした反撃を画策していたのである。
あくまでも、最後まで抵抗し、生き延びて官軍に打撃を与え、江戸で敗れて、東北やその他に転戦することさえ視野に入れていたのである。
だが、鉄舟は、死ぬことで、そこから死中に活を見出そうとしていた。
だから、その生死を超えた覚悟に、官軍の兵士たちは気を呑まれ、そのまま鉄舟を見逃した。
まさに奇跡といっていい。
その鉄舟は武器としての刀が廃止された明治時代になっても剣道と武士道を追求し続けた。そして、みずから「無刀流」を開いた。
鉄舟は、幕臣として天保7年(1836)に江戸に生まれ、武芸に打ち込み、中西派一刀流で修行した。
常に剣による悟道を目指して、剣に打ち込み、参禅して瞑想し、生死を超えた人間の生きるべき目的と意味について求道し続けた。
鉄舟は、ただの剣の人だけではなく、今後の日本の行く末や世界の将来について考え続け、当時のキリスト教を中心とした世界が物欲的で物質中心主義になっていく推移を予見し、日本人がとるべき方向性と精神性について警告を発した。
日本の背景にある武士道精神こそが日本を救い、ひいては世界を救う思想となることを確信していたのである。
「今後は祖先伝来の武士道をもって頭脳となし、抽象科学、物質的思想を手足となし、武士道である頭脳が指揮官となって、物質科学が手足のごとき遵奉者(じゅんぽうしゃ)となって、未来の戦国社会において、仁義の軍を率い救世軍とならなければならぬ。それゆえに抽象的科学である手足がむやみに増長して、同輩に道義もかまわず、一軍団を崩壊せしめるような個人主義を唱えんと企てれば、武士道である頭脳の指揮官が一令の下に取り押えて、全軍の威厳をあくまでも貫徹しなければならぬ」
「単に科学的一偏進歩の結果、私利私欲をむさぼってついに暗雲のごとき大乱をでかした憐(あわ)れむべき人類社会を開発誘導して、真の文明の境に導く仁義の大軍である」
(「これからの日本人の生き方」。勝部真長編『山岡鉄舟の武士道』角川ソフィア文庫から)
日本人が武士道を中心に、世界を救うというのは、今から考えれば、理想論とみられるかもしれないが、生死を超えて国のため世界のために生きようとした志だけは間違いなくあった。
その鉄舟のもとには、人柄を慕い、多士済々の人物たちが集まった。
弟子の中でも、異色だったのは、落語の中興の祖と言われた三遊亭圓朝である。
圓朝の落語は、二葉亭四迷など日本文学の言文一致、口語化に影響を与えたといわれるほどだった。
鉄舟は、晩年、みずからの死期を悟って布団から起き上がり、結跏趺坐(けっかふざ)をしてその最期を迎えた。
(フリーライター・福嶋由紀夫)