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幕末の志士・吉田松陰の精神形成

 教育ということを考えるとき、忘れることのできないのが、幕末の志士・指導者であった吉田松陰(1830〜59)である。

 吉田松陰が主宰した塾・松下村塾からは、明治維新の立役者・多くの有為の人材が輩出した。

 特に、倒幕の背景には、この松陰の思想、そして、弟子たちの存在を抜きにしては考えられない。

 松下村塾出身で、松陰の影響を受けた人物には、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義、前原一誠などの錚々たるメンバーがいる。

 これだけの人物たちが長州藩の松下村塾から輩出したのは、一種の奇跡といっていいだろう。

 だが、松陰が実質的に松下村塾で弟子たちに教えたのは、長期間ではなくわずかな期間でしかない。

 その影響力の大きさから、長年、教えていたように錯覚しやすいが、実際に松下村塾で教えたのは1857年(安政4)から、松陰が再び投獄された翌年までである。

 そのわずかな期間で、優れた弟子を育てたことは、教育というものの本質が、時間をかければいいものでも、単なる知識教育だけでもないことが理解できる。

 優れた全人格教育や教育理念、あるいは松陰にカリスマ的な魅力があったということだろう。

 果たして、人間は短期間で、人生観が変わるほどの、それほど大きな影響を受けることがあるのだろうか。

 それが長年の私の疑問だった。

 ここでは、松陰の思想やその内容については、ほとんどふれないし、私はそのような知識も乏しい。

 ただ、なぜ松陰という奇跡的な人物が形成されたのか、その一部分について、ふれてみたいと思う。

 というのは、私には、この松陰という人物について考えるとき、絶対忘れられないエピソードがあるからである。

 それは、作家の司馬遼太郎の小説『世に棲む日日』の中に出てくる松陰の精神を形作ったと思われる事件である。

 松陰は、元々は吉田家ではなく、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれた。

 まだ幼児の時に山鹿流兵学師範の叔父に当たる吉田家の養子となり、そのもとで兵学を修めた。

 だが、叔父がすぐに亡くなったために、同じく叔父に当たる玉木文之進の指導を受けるようになった。

 実は、この叔父・玉木文之進が開いた私塾が初代の松下村塾であり、松陰はその後を引き継いだわけであった。

 この玉木文之進は、厳格な人物であって、その薫陶が松陰の精神形成に大きな影響を与えたと思われるのであるが、それはまた一考しなければならない点も含んでいる。

 この文之進と松陰の師弟関係については、司馬遼太郎の小説で、鮮やかに描かれているので、記憶している限り、次のようなものだった。

 手元に本がないので、覚えている内容の紹介になるが、そのあたりはそれほど食い違ってはいないと思う。

 当時、長州藩は関ヶ原決戦で西軍に所属していたために、徳川幕府から大きく石高を削られてしまった。

 毛利元就という英雄を生んだ西国の雄藩だった長州藩は多数の家臣を抱えていたために、狭い土地では抱えきれず、下級武士は体面を保つこともできず、それぞれ武士でありながら、みずから土地を開墾し、貧しい家計を助け田畑を耕して自給自足していた。

 文之進も、また田畑を耕しながら、学問を教えていた。

 司馬遼太郎の小説『世に棲む日日』では、文之進はクワで田を耕し、あぜ道に松陰を座らせ、四書五経、論語などの本を素読させていたとある。

 文之進は、クワをふるいながら、その松陰の素読の声をじっと聞き、その姿勢を観察していた。

 当時は、何度も朗読しながら、自然に身体と精神に覚えさせるのが教育だった。

 その聖人(孔子など)の言葉を訓読し、学ぶことで感得すること、そして、師匠はそれを聞きながら、時々、その意義について教えた。

 とはいえ、文之進の教えがどのようなものであったのかは、本当の意味ではわからないというのが正直なところである。

 松陰は幼かったが、聡明で一を聞いて十を知る神童だった。

 素読も朗々として声がいい。

 が、ある時、その松陰の素読の声が少し乱れた。

 文之進が見ると、松陰はやぶ蚊に頬を刺されたのか、そのかゆみのためにかいていた。

 「ぬしわああ!」

 といったかどうかはわからないが、獣のように吠えると、文之進は走っていき、あぜ道に座っていた松陰を殴り飛ばした。

 それだけで終わらない。

 文之進は、あぜ道から落ちた松陰を殴る蹴るの暴行を加えて止まなかった。

 体罰、どころではない。

 まさに、正真正銘の一方的な暴力であり、体罰だった。

 当時、この光景を見ていた家族は、あまりの暴力のひどさに、むしろこのまま松陰が死んでしまった方が楽ではないか、と思ったほどだったという。

 おそらく、当時にはそのような体罰による不慮の死もそれほど珍しくはなかったのかもしれない。

 体罰を加えた文之進の言い分は、聖人の言葉を学ぶというのは公的な時間であり、その神聖な時間に蚊に食われてかゆいところをかくというのは私的な行為になり、それが高じると、公的な役人になったとき、私的な利益のためにワイロをもらうような悪人になるというものだった。

 それをさせないためには、幼いときから体で覚えさせるしかないと断じた。

 恐るべき論理だったが、「三つ子の魂百まで」ということわざに通じる教育理念であるだろう。

 この文之進は、また日露戦争で活躍した乃木将軍を教育した人物でもある。

 このようなある意味では目茶苦茶なスパルタ教育を受けながら、松陰は体罰教育というものを自分の弟子たちに施してはいないようだ。

 松陰の過激な革命思想は、この文之進による純粋培養の正義感、倫理観、道徳観が背景にあるように思われるが、それにしても、なぜあれほどの暴力を受けながらまっすぐに育ったのか、今なお不思議な謎である。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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