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年の瀬に思うこと

 年末となり、今年の仕事の整理と来年のための仕事をしながら、若干戸惑っている面がある。

 というのも、今年の仕事納めに間に合わせるために締め切り時間と闘いながらいろいろなものを書いていると、原稿が掲載されるのは年をまたいで2025年になるからだ。

なので、その時読んだ人が混乱しないように配慮しながら書かなければならない。

正月ではないのに、正月のことを書き、その気分がないのに、あたかも正月中に感じたようにやや創作しながら書いているのだ。

これはマスメディアでは、特に珍しい事例ではないが、それでも実際の気分ではないのに、そうであるかのように振る舞うというのは意識はしていないが、一種のやらせみたいなものではないか、と疑念を覚えたりする。

とはいえ、こうしたことは毎回のことなので、そうした疑念を封じ込めながら仕事として書くしかない。

記憶しているかぎり、かけ離れた季節のことを書いたのは夏なのに冬のことを書いたり、春なのに秋のことを書いたりしたことがある。

定期的な発行の雑誌媒体ならいざ知らず、不定期な発行媒体なら珍しいことではないが、それにしても、と思わないでもない。

テレビの正月番組にしても、正月に放映されるのは生放送ではないかぎり、ずっと前に収録したものを放映しているわけで、その点では出演しているタレントや芸人の奮闘ぶり、正月ではないのに正月気分を盛り上げて、視聴者にその気にさせる演技には頭が下がる。

やはりテレビ番組などで活躍するタレントは、その名のように優れた能力、才能があるのだとうなずくほかない。

考えてみれば、ファッションなども冬物はその以前から制作しないと間に合わないわけだし、多くの業界での季節合わせての制作業務は未来を予想しながらそのプロセスをたどっている。

先読みをしながら生活をしていることでは普通なのである。

その意味で、年末に正月や春のことを書くのは当たり前なのだが、それでも、ときどきふっと気になってしまうのは、私がプロ意識にやや乏しいせいかもしれない。

そうでなければ、季節感を感じているときに旬のものを食べるように原稿も書きたいという思いがあるのかもしれないなどと考えている。

なんでもそうだが、日本人は伝統的に春夏秋冬の季節の移り変わりとともに自然とともに調和しながら生きてきたのである。

長年代々の生活によって、細胞の隅々まで、自然との共生のスタイルがDNEとなって、行動原理を無意識に動かしているとは言えまいか。

遺伝というものが、現代人の精神や身体にある程度の影響を与えていることは割合知られている。

われわれの行動が自由なようで、ある面では過去のそうしたDNAによって束縛もされている。

自分の意志で行っているようでも、その背景には先祖の遺伝や性格、それまでの生活が原因となって選択を無意識にしている場合もあるのだ。

だから、日本人にとっては自然の推移は細胞レベルにまで及んでいるといっていい。

自然を大切にしないと、身体感覚と現実とのずれによって不調をきたすような気がするのだ。

よく引きこもりなどの精神的な不調を治すには、無機質な都会生活を続けるのではなく、環境を変えて山や川、海などの自然環境の豊かな土地に移り住むことがいいといわれることがある。

それは自然の推移する時間と身体感覚の時間のずれが無くなって、自己の中にある自然治癒によって精神も回復するのではないか。

いずれにしても、人間の身体は都会生活だと頭脳中心になってしまうが、本来は手足などの身体も適度な運動することが重要になるのではないか、と思ったりする。

SF映画や小説では、文明が発達しすぎた惑星では、宇宙人の手足が退化して頭でっかちになってバランスが悪い姿として登場する。

使わなくなれば退化するというのは自然である。

人間も、頭脳生活が中心になると、手足が退化し、H・G・ウェルズの小説のクラゲのような火星人のようになってしまうかもしれない。

それが極限にまでいけば、頭脳だけが生きて、そのほかは機械で構成された未来人となってしまう可能性も否定できないだろう。

とはいえ、こうした進化のプロセスは理論の結果であって、現実にそうなってしまう可能性は100パーセントではない。

頭脳だけの観念生活の弊害、それによる人間性の喪失などの問題は、ある程度までなれば、それを食い止め変えようとする精神的な革命が起こるという可能性もある。

破滅に向かう道を平和に話し合い、警告し、そして改善しようとする精神も人間の本性にはあることに期待したいのである。

それが人間の尊さ、貴重な一面であると思う。

自然世界では、確かに極限になっていくと、一種の破滅へのルートに向かうパニック状態になってしまうことがあるのは確かである。

たとえば、突然増えすぎたレミング(ネズミ科)の大量増加によって、暴走し、しまいには川や海に入って集団自殺するような現象がある。

極端な進化、膨張はそのようなパニックや暴走を生む可能性を否定できないのである。

とはいえ、このレミングの集団ヒステリーも集団自殺ではなく、一部の暴走が大げさに伝えられ伝説化されたものであるという指摘もある。

それはそうとして、人間には頭脳だけではなく、精神性、宗教的な利他性というものがあることを考えれば、未来へのネガティブな予想よりも、平和な調和ある世界の出現への希望も捨てがたい。

どうなるかは、今現在ではわからないけれども、きっと地球革命的な変革と変化が起こってくるに違いないと私は祈りたい。

(フリーライター・福嶋由紀夫)

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