街に出ると、寒さが一段と身にこたえるほどになった。
枯れ葉も道に積もっている。
紅葉や銀杏の葉ならば風情があるが、黒くあるいは茶色になった枯れ葉をみることが多くなった。
風がそれを転がしている風景を見ると、なぜか寂しい気持ちになる。
ああ、もう2023年も終わりか。
12月が目前になった時、あっという間の一年だったなあという感慨が浮かんだ。
カレンダーを見て初めて、時間の経過に驚いたといった感じで、なぜか実感がない。
年末を迎えて、そういえばとふと年賀状をどうしようかと思い悩んだ。
出すか出すまいか、そんなことを思ったのも、年々出す数が減ってしまったからである。
高齢者になって知人友人が鬼籍に入ってしまって、自然に減少したという部分と、メールで済ませるということが増えて来たからだ。
手間暇を考えれば、メールの方が手軽で苦労もいらない。
だが、一年に一度の挨拶に、メールでいいのだろうか、という思いに駆られたのである。
メールやラインは便利だが、それはビジネスなどの連絡にはいいけれども、正月というハレの日に送るのは、どこか失礼なのではないか、などと考えてしまう。
日常に使っているツールなので、どうしても改まった場では、もう少し正式というか、少しフォーマルではない形であいさつしたいという気になるのである。
とはいえ、年賀状を書くというのも、時間がかかるのと、文面を考えるので少しばかりためらってしまう。
ほとんど手書きする機会が無くなったので、字を生で書くというのも、心の準備がいるからだ。
そんなの印刷済ませればいい、という考え方もあるだろうが、そうなると、メールと変わらない気がする。
むしろ、印刷だとメールよりも、どこか心がこもっていないようなイメージを抱く。
それには抵抗がある。
だから手書きがいいのだが、となると、相手に合わせて文面を考えなければならない。
それもまた、ちょっと苦痛である。
かつては、メールなどの便利な機器がなかったので、手書きしかなかったが、一枚一枚書いて重ねていくにしたがってため息が出るほどだったことを覚えている。
何しろ言葉が思い浮かばないので、当たり障りのない慣用句、「新年あけましておめでとうございます」とか「謹賀新年」などを書いていたからだ。
まあ、それだけだと素気ないので、「今年も頑張ろう」「今年もよろしく」などの言葉を添えていた。
宛名は違うけれど、書いている内容はまったく同じ。
そんな機械的な作業が面白いわけがない。
というわけで、年賀はがきを書くと聞くと、やや憂鬱になってしまうのである。
最初のころは良かった。
ちょっと驚かせようと思って、木の板に彫刻刀で干支の動物を描いたり、一人ひとりに相手にふさわしい言葉を考えて長い文章を書いた時期もあった。
それが毎年になると、文章の在庫が無くなっていくので、新しい文面を考えるということが苦痛になってしまった。
もちろん、分厚い百科事典か辞書のように年賀はがきを積み上げて、書いて書いて、その山を眺めては満足するという人は確かにいるかもしれない。
それは例外のレアケースと思いたい。
考えてみれば、年賀はがきというのは、書くのを楽しみとしているという奇特な人以外は、簡便にしたいと思っているのが普通だろう。
だからこそ、メールで「あけましておめでとう」とテンプレートのサンプルで済ませてしまう。
それはパソコンやスマホを使いこなしている若者にとっては、そんなに重く考えないケースになる。
手早くしかも夜昼関係なく送れるならいいんじゃないか。
そんな声も聞こえてくる気がする。
だが、年賀はがきのような伝統的な習慣を気軽に考えることができない世代にとっては、相手がどう思うかということが気になってしまう。
形だけでも、手間暇をかけとた相手に思わせたい。
だから、メールが手軽で便利だけれど、それで年賀はがきの代用をするのはちょっと……という古い世代は案外多いのではないか。
特に、パソコンやスマホが苦手な高齢者にとっては、操作をミスって変なメールを送ってしまう危険性もある。
そんなことになってしまえば、相手にどう思われるか、それこそ心配だ。
実際、私の例でもそんな失敗をしたし、また同世代から間違いメールをよく受け取ったものである。
それがビジネス関係であれば、すぐに相手に知らせて注意するが、プライベートなメールだと返信もできかねるものがある。
恋人や夫婦の間のメールなど、それこそ注意していいかどうか、文面が読んで恥ずかしい場合もあるから、そのまま気づかないふりをするというケースもあった。
それこそスルーしたのである。
そんな失敗もあるから、高齢者はメールよりは読み返すことができる手書きで書きたいという思いになるのも無理はない。
でも、よくよく振り返ってみると、そんな心配をしなければならないほど同世代の知人友人がいるわけではない。
重箱のような厚さから次第に小冊子の厚さになっていくことを考えれば、骨惜しみをせずに手書きで書いた方がいいかもしれない。
寂しいことだが、それは仕方がない。
人も人生の秋になれば、だれでも枯れ葉のように霊界へ行くからである。
ならば、最後のあいさつとなるかもしれない年賀はがきは手書きにした方がいいだろうと思ったりする。
それに、手を使って書くことでボケ防止にもなるかもしれない。
修行僧のような気持ちになって、年賀はがきを買い求めることにした。
今は、墨汁も必要のない筆ペンもあるので、あとは書くだけでいい。
秋の空には、うろこ雲が流れている。
そういえば、おおい雲よ、どこへ行くんか、といったような詩を書いた詩人がいたなあ。
私の出す年賀はがきも、空を飛ぶかもしれない。
そんな想像をしながら、風の吹く街を歩いていた。
(フリーライター・福嶋由紀夫)