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引きこもりという過去・現在・未来

 

引きこもりという過去・現在・未来

 最近、高齢者による交通事故や50代になっても社会から隔絶した生活をしている高齢者の引きこもり問題がマスコミなどで取り上げられている。

 この問題は、50代の引きこもりの息子・娘を抱えた80代の親の苦難・苦労として「8050問題」と呼ばれている。

 それだけを見れば、老いた親を老いた息子・娘が介護するという「老々介護」の問題と重なって見えるといっていい。

 高齢化社会の特有の現象として、とらえられているが、その背景には家族制度、というか、人間の社会を構成している最小単位である家族の問題が投影されていることは間違いない。

 なぜなら、この問題は家族関係のレベルで解決できるようなものではなく、社会の関与、それこそ政府による福祉や介護制度の整備などの国家レベルの政策問題を含んでいるからである。

 こうした観点からみると、よく左翼勢力は政府批判の具として、制度の改革、福祉の充実を訴えるが、その財源となる根拠などは、政府レベルだけの問題だけではなく、国民の国家に対する奉仕や義務、権利の問題など、全国民の取り組み、意識改革が求められているといっていい。

 というのも、これらの問題は政府の福祉や補助金などだけでは解決できない、人間の根源的な存在における問題があるからである。

 要するに、現在の政策や福祉の問題は、環境的なインフラ整備であっても、その前提にある個人主義的な親子関係や個人の問題を見据えたものではない。

 社会・国家は個人が集団で集まることで成立しているように見えているために、個人主義的な資本主義(民主主義)が前提になっているが(社会主義も同様な問題を抱えている)、その個人が成長し、独立して、社会の構成員になるためには、家族関係による精神的な絆の形成が重要であるにもかかわらず、そうした家族の問題は抜け落ちているのである。

 その意味で、高齢者の引きこもり問題は、社会の問題であると同時に、人間の存在がなにによって保たれているか、という宗教や哲学にもつながった精神的な問題であることがわかる。

 それはひいては、夫婦の関係や家族制度の問題になっていくのである。もちろん、日本における第二次世界大戦以前の家族制度は、大家族制度であり、それがむしろ日本の方向性においては、家父長絶対主義のような愛情を中心とした絆ではなく、父権という力による絶対的な支配を意味していたことも間違いない。

 それゆえに、戦後占領政策において、財閥解体、土地改革などの伝統的な制度を破壊することによる日本の国体の解体という方向性を強いられた面がある。大家族制度の解体もその一環であることは言うまでもない。

 この占領軍による制度改革が、プラスになったの戦後復興と経済成長という外的な側面だったが、内的には日本人の伝統的文化・倫理道徳観の崩壊というマイナス面になったのは、こうした社会の絆を切断したアメリカ流の個人主義的な政策によったことは間違いないだろう。

 ただ、こうした伝統の破壊や制度の破壊によって、エゴイズム的な個人主義の台頭に発展していくことは予想されたことで、本来ならば、日本の戦後復興に、個人主義的であると同時に、社会貢献、全体に対する奉仕の精神という、公的精神の教育と注入があれば、エゴイズム的ないびつな発展ではなく、健全な民主主義的な自由の発展がありえたと思うのである。

 その役割を果たすのが、おそらく日本の精神文化の中に投入しようとしたキリスト教的精神ではなかったかと考えている。

 そのために、終戦当時、皇太子であった現在の上皇陛下の家庭教師として選ばれたキリスト教のヴァイニング夫人だったし、そのほか、ミッションスクールや教会活動が盛んに日本社会に浸透させようとした政策だったはずである。

 だが、日本は敗戦したとはいえ、その国体精神を形成していたのは、一神教に勝るとも劣らない「日本教」(山本七平が指摘していた日本の宗教ならざる宗教)という強固な精神文化だった。

 日本人は、この神道と仏教が習合した宗教精神を意識しない深層心理レベルで受容していたために、他の国家のようにキリスト教による日本人の精神の書き換えをすることができなかったといっていい。

 とはいえ、日本は神道だけの一神教的な国家ではなく、キリスト教のような外来宗教であった仏教を受け入れた歴史的事実がある。

 そのような先例を深く研究していれば、神道や仏教と同じようにキリスト教も受容できる道があったかもしれない。

 これは可能性の問題であるが、儒教や仏教や技術文化などの外来文化のよきものを受容し、日本的に変化成長させてきた歴史的背景を考えれば、キリスト教そのままではなく、そのよきものの受容発展を成し遂げることができたかもしれない。

 実際、このキリスト教的な慈善の精神、博愛精神の多くの精神的な受容は、国民精神レベルでは育たなかったが、皇室における社会活動や外交、国民との交わりの中で実っている気がするのである。

 問題が少し広がりすぎたが、高齢者による引きこもりや交通事故の問題は、こうした日本戦後社会のひずみ、子供・夫婦・祖父母などを中心とした家族制度の問題が噴出し、ある意味では警告であり、それをどう解決していくか、その再建にこそ将来の日本の繁栄への道が開けるのではないか。

 改めて、制度改革などのインフラ的な整備で解決しようとするのではなく、人間の人間たらしめている家族関係、そのものの本質を問い、その再建を道徳教育や国民教育、そして、宗教的な伝統教育などを通して、解決していかなければならない時代になったのではないか。

 引きこもりが、以前は青少年だけの問題のようにとらえられているが、今やそれは高齢者にも広がっている社会問題であり、国民全体の問題、国家の将来を危うくする課題になっている。

 そのことを考えれば、こうした問題が噴出しているときにこそ、早く応急処置をし、根本的な手術をし、そして、早く健康体への回復が求められるといっていい。

 過去に引きこもり的な傾向があり、現在もその影響下にあって、対人関係や社会活動がなかなかうまくできない私としては、この問題は他人事には思えないのである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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