インターネットの発達によって、現代ではどこの場所にいようとも、最新の情報にアクセスできる時代になっている。
それこそ、日本の東京にいる人間よりも、アフリカなどのインターネットに常時、接している人の方が世界情勢やファッション、風俗などに通じているといた逆説的な現象も起きている。
情報機器の発達は、スマホさえあれば、ワイファイ環境と電源さえ整えられれば、どこにいようともまったく情報格差は関係がない。
かつてユーチューブで、アマゾンの密林の少数民族がスマホを当たり前のように使っている風景を見て衝撃を感じたことがある。
スマホを使いながら電話をし、情報を獲得する。
そして、電源が足りなくなれば、あばら家のむき出しの机などにおいてある充電器に差し込む。
家の中も外も電化製品などはほとんどないのに、スマホとその関係機器だけがぽつんと存在する。
それこそ原始と超近代が混在し同居するような違和感を覚えたものだが、アマゾンの人々にとってはそこに便利なものがあるので、ただ利用しているといった感じなのだと思うのである。
科学技術は、背景には知識や技術の発展という文明の土壌がなければならないが、そこから生み出された製品は、その使用方法さえわかれば、別に科学技術を知らなくても誰でも使いこなすことができる。
その意味では、情報革命の現代は、製品の平準化をもたらした時代であり、対価さえ払えば、なんでも新製品、新技術が手に入る経済を中心とした時代圏であるとも言えるかもしれない。
もちろん、その背景にあるものは、カネを中心とした物質至上主義の世界である。
それを動かしているのは、資本主義や社会主義・共産主義の国家の戦略的な政策である事は間違いない。
開発などへの経済的援助が、ただの善意的な行為ではないことはいうまでもないが、そこには、資本主義と共産主義などの国家では、その目的とすることが違っている。
今後は、世界情勢はこの経済を軸とした共生共存の時代を目指していかなければならないが、その基盤となるのが技術の平準化であり、それを成していくには、共存共生の背景となる平和思想が求められなければならないだろう。
情報格差についての話から少し逸脱してしまったが、基本的には新しい情報にアクセスするには機器が発達していない時代は、距離が離れれば離れるほどその鮮度と正確性が失われてしまう。
たとえば、江戸時代の首都の江戸でなにがあったのか、というのを知るのには時間がかかり、そして、その衝撃性は観念的になり、水に薄められた酒のように希薄になるか、尾ひれがついて拡大されてしまうことが多い。
そうしたことを感じさせてくれるのが、武士道が謳われた花の元禄時代の忠臣蔵の事件、そして、当時の将軍・徳川綱吉の行った「生類憐みの令」である。
学校で習うこの事件や法令については、まるでそのことがその時代の大ニュースで、全国各地に周知され、全国民がその話を知っていたというような印象を持つが、実際には江戸を中心とした事件であり、法令であったのである。
まったく江戸に限定されているとまでは断言できないが、少なくとも、「生類憐みの令」にしても、イヌの保護と生き物への殺生を禁じた令を犯した犯罪者の検挙と処罰は、全国各地で均等になされたわけではない。
表面的には敬っているように見えても、実際には放置して見て見ぬふりをしているといったのが風潮だった。
そのあたりは、牛を神聖視しているインドのようなヒンズー教の精神が全土に浸透しているというものではなかった。
「忠臣蔵」にしても、当初は忠臣蔵の赤穂浪士が忠義の士であるのか、武士道にかなうのか、儒学者の論議を呼び、切腹という厳しい措置となったのは武士道にふさわしくないという観点が勝ったからである。
最終的にこれが全国化したのは、歌舞伎や浄瑠璃で取り上げられて劇として娯楽の対象となりブームとなったからである。
忠義であるかどうか、それを決めたのは、判官びいきのように切腹したという敗者の赤穂浪士が庶民の同情と喝采を呼んだからである。
もちろん、その背景には、江戸幕府に対する批判や鬱積した政治への不満などがあったことは間違いないが、それを国民的な感情にまで高めたのは忠義の士として描いた浄瑠璃、歌舞伎である。
「忠臣蔵」という国民的な演劇にまで成長したことにより、赤穂浪士は忠義の士になったのである。
そして、それをリードしたのが、演劇ではあるが、この演劇を娯楽として見ることもできるが、情報が統制されていた時代の風刺、批判を秘めたマスメディアでもあったという側面を忘れることはできない。
演劇という形式を通じて、赤穂浪士の行動が情報として地方に伝播していったということがあったのである。
その意味では、演劇や文学は、芸術であると同時に、時の政府の政治を風刺し批判する情報媒体のマスメディアでもあった。
情報自身が伝わったとしても、それが庶民にわかるような表現形式でなければ、それはただの事件であり、事実である。
それが国民的な情報となるためには、まさに歌舞伎という入れ物が必要だった。
当時、この赤穂浪士の事件が愛知県の名古屋まで伝えられた時、どのように当時の武士が受け止めたのかをみればいい。
当時の忠臣蔵の古武士的な面々とは対照的なサラリーマン武士だったのが、尾張藩の御城代(おじょうだい)組同心で百石を取っていた朝日文左衛門重章。
その彼がひそかに二十七年間にわたって営々と綴った『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』と名づけられた日記には、当時の社会世相・事件・風俗・人情・地震や火事の災害など、目に入り耳に入ったものを驚くべき好奇心で描いている。
忠臣蔵の事件については、「夜、江戸にて浅野内匠家来四十七人亡主の怨を報ずると称し吉良上野介首を切り、芝専(泉)岳寺へ立退く」と事実の記載にとどまっている。
好奇心にあふれた朝日文左衛門重章でさえも、聞いたときには国民的な事件ではなく、ただの刃傷沙汰の殺傷事件に過ぎなかった。
その日記に、忠臣蔵の事件はただの事件、風聞としか書かれていないのを見れば、情報の鮮度とともに、その情報を補足する付加価値(脚色)が重要だったことを示しているといっていい。
(フリーライター・福嶋由紀夫)