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戦争と平和をどのように考えるか

 

 人類の平和を脅かすものは、戦争ということになるだろうが、なぜ人は平和を求めながら武器を取って戦うのだろう?

 まったくまっとうな問題提起で、この疑問に正確に答えられる人は余りいないだろう。

 もちろん、食料や財産、土地などの奪い合いという、戦争の要因や契機というものはわかるが、それでもなぜ互いに交渉しあるいは共存共栄を目指して平和な解決策を取ることができなかったのだろう、という疑問を論理的に説明することは難しい。

 戦争によって得られるのは、勝者の一方的な利益のように見えるけれども、しかし、その後、それによって、また新たな争いの種播きに過ぎないことは、報復戦争の歴史が示す事実である。

 戦争が相手をすべて絶滅してしまう、すなわちゼロにしてしまえるならば、その争いの根のほとんどを無くすことができるだろうが、それは不可能だ。

 戦争は相手の土地を収奪し、相手の人民を自分たちの支配下において、作物を耕作するための人材として必要だからである。

 人は自分たちを豊かに富ませるための貴重な財産であったのである。

 そして、戦争や争いの問題は、それは国外だけの問題ではない。

 国内でも、戦争によって被害を受けた人々、家族を失った人々の怨念や不満が政権に向けられ、それが禍根を残すことになって、社会不安を造成し、それが再び戦争への火種となるからだ。

 戦争の結果、それから利益を受けた富裕層と家族の働き手を無くした貧困層の格差が拡大し、それが社会を崩壊させる亀裂を生むのである。

 だからこそ、大人はなかなか戦争を無くし、平和をもたらすことができるということを、建前としては述べることができるけれども、戦争が無くならない根本的な理由を説明できない。

 それは社会で様々な体験をし、会社の人間関係や不正や不条理な問題にぶつかり、理性では納得しなくても、それを生活するために無理矢理、心の奥底に仕舞ってしまうからである。

 この世の中には、理屈通りではない、建前と本音がまかり通り、その両者とも正しいとか間違っているという判断ができないという世間知を体験して、理想をそのまま信じて進むことができないと知ってしまうからでもある。

 現実に妥協することが必要であることを学ぶのだ。

 社会は数式のように数字で答えが出ないということを肌で感じるのだ。

 その意味で、戦争がなぜなくならないのか、という問題は、純粋で社会を体験していない青少年に多い素朴な疑問というべきものだが、この問題を解決しないかぎり、世界平和が実現できないということも真実であることは間違いない。

 そして、この問題の根本的な問題を解決するためには、物質的な奪い合いという生存の問題、政治経済の問題で考えては根本的な解決をすることができないことも、また間違いないのである。

 すなわち、戦争を起こす人間自身の心の問題、なぜ人の財物を奪うという、非理性的な欲望が沸き起こるのか、という心の問題、強いていえば、宗教倫理的な問題へと目を向けなければならない。

 だが、宗教的な問題というと、日本人は宗教の本質というよりも、その表面的な現象に目を向ける。

 理性的ではない儀式や祈り、習俗、慣習、そして、固有の教義に縛られた不自由な生活をしなければならないなどという側面を思い浮かべる。

 宗教には、それぞれ侵してはならないタブーや義務、迷信的な儀礼に縛られているものが多いこともある。

 なぜそれを守らなければならないのか、という根拠が歴史的なものや神話的なあいまいなものが多いので、それを理性が受け入れられず、非科学的というレッテルを貼って、それから遠ざかり無視する方がいいと考える。

 そして、宗教がなくなれば、平和な世界が生まれるのではないか、とも考えたりもするのである。

 また、現在の世界の紛争や戦争がキリスト教やユダヤ教、イスラム教の対立という宗教をメインとして国教化している国々の争いに見えるので、宗教こそが戦争の原因ではないか、という宗教対立戦争説に一票を投じたりする。

 その上、インドのような多民族国家でも、ヒンズー教とイスラム教の角逐、それを融和させようとしてかえって戦争をするようになったシーク教など、テロや紛争が、宗教の違いによって、現実に起こっていることからも、宗教が戦争の原因となっていると考えやすいのが日本人である。

 その点で、現実的な政治や経済による平和の実現へのプロセスをたどる国際連合のような組織や国家間の貿易などで不均衡を是正いたり、国内であれば貧富の差、格差問題を福祉などのインフラ整備によって解決すれば平和が生まれると、考えている面がある。

 果たしてそうだろうか。

 宗教的アプローチは、戦争の解決にはならないのだろうか。

 もちろん、宗教が抱える問題、教義の対立、宗教間の争いという問題がまったく戦争と関りがないとは言えないのは確かである。

 実際に、歴史的に多くの対立と紛争を生んできたからである。

 だが、それは宗教の本質とは別に考えなければならないと思う。

 政治や経済が平和よりも戦争を生み出す原因になったように、宗教も教義化し、教団となり、団体として政治的な存在になると、他宗教との軋轢に巻き込まれ、本来の姿とは異質化して、政治的な立場を取り、争いを生み出すのである。

 その意味では、宗教自身も、その原点に立ち返らなければならないといっていい。

 宗教も反省し、政治や経済のように平和という問題に取り組むために、内部的に改革しなければならないことはある。

 そうした面があるものの、宗教が今後の世界をリードして、国家間の国境を越えて、互いに対話と交流によって変えていく可能性を孕んでいることは間違いない。

 現実的な利害関係を超えて、共存と共生、共栄を目指すことができるのは、グローバルな世界観をもった宗教が成しうることだからである。

 その対話の時代は、具体的に始まり、そして、平和を求めて交流と対話を実現させていく試みがなされている。

 宗教が本来、見つめているのは、人間という存在の心の根源にある「善」と「悪」の問題である。

 戦争を生むのは、この人間の心の中における戦い、人を助けようとする「善」と自分の利益だけを追求する「悪」の対立と角逐が根底にある。

 こういうと、人間の現実的な環境状況を無視して、観念的な理想論に見えるかもしれないが、平和を生み出すのは理想論的な側面が必要だということも確かなのである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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