企業においては、中小企業の初代の社長が裸一貫から身を起こして、小さな店から会社を大きくしていく話がある。
それこそ自分の力で会社を大きくしたという自負心があるので、だいたいのタイプがワンマンで、何でも部下任せにせずに自分で決断してやってしまうという傾向がある。
何でも自分でやってしまうために、自分のやり方以外を認めようとしない、経験主義的な経営をする。
ある程度までは成長するが、それ以上は大きくならない。
ワンマンな社長が健在な時にはいいが、病気になったり、亡くなったりすると、とたんにその体制がゆらぎ、後継者問題で会社が立ちいかなくなってしまうこともある。
カリスマ的な経営者であればあるほど、その傾向は強い。
もちろん、それを防ぐために、自分亡きあとの後継者問題を考えているケースもあるが、それはなかなかない。
だいたいは、ワンマン経営者は、後継者といっても、自分を肯定してくれるイエスマンを周囲に配置するので、企業が転機を迎えたときは舵取りが難しい。
その上、自分で作り上げた会社だから、赤の他人に渡すよりも、自分の息子や娘に譲り渡したいという気持ちになる。
その息子娘が優秀であれば問題はないが、それも会社自体が体力があり、なおかつ優秀なブレーンや人材が育っていて、体制をサポートしてくれる状態が整っていれば問題は少なくなる。
仮にそうした状態で後継者へバトンタッチをしようとしても、逆に親子関係であるがために、かえってさまざまな問題が噴出してしまう場合がある。
親は親で自分のやったとおりに子供が受け継いでくれることを望むことが多いが、その子供自体は、親とは違って最新の経営理論や経済などを学び、親の考え方は古臭い、時代遅れだといういう対立が生まれる可能性が無きにしも非ずなのである。
そのような事例を、大塚家具における親子の対立と破綻からみることができるかもしれない。
まさに、この大塚親子における経営の方法の対立は、娘が親を追放し、その後、机上の理論で学んだ経営理論と実際の経営に破綻を来たしてしまう。
一方、追放された父親は、その昔ながら方法で新しい会社を創設して現在まで命脈を保ち、存続している。
これはまさに、後継者問題に失敗した例ということができるだろう。
かつて、フランスの哲学者のアランは、その著書の教育論で、親が子供を教育することの難しさを指摘している。
それによれば、教育は親は子に「これぐらいはできるだろう」と期待し、子は「これぐらなら勉強しなくても、親だから許してくれるだろう」という肉親の情が働き、どうしても過度の期待や甘えが働いてしまう。
だから、教育には、他人が関与して、理性的な客観的な環境とある程度の距離を保つ人間関係でないと、教育の成果が望めないという。
それほど親ばかになりやすいし、親に甘えてしまうわがままが露出する。
それほど親子における後継者問題は難しいのである。
かつて、司馬遼太郎の時代小説を読んでいて、親子関係について記憶に残っているシーンがある。
それは小田原城を築いて、戦国時代に関東で覇を唱えた後北条家の盛衰を描いた場面である。
北条氏は、豊臣秀吉によって亡ぼされてしまうのだが、それを予感させるシーンを司馬遼太郎は書いている。
それは、北条氏3代目の氏康と4代目の氏政という親子の話である。
氏政は汁かけご飯が好きで、毎日それを食べていた。
氏康は、この氏政の食事風景を見て嘆息した。
というのは、氏政は毎日、おなじことをしているのに、それがうまくできないからだった。
氏政は椀のご飯にみそ汁をかけて食べるのだが、その分量のバランスが分からず、何杯もかけて調整したり、ある時には汁をあふれさせてこぼしてしまう。
その姿を見た氏康はこう嘆いた。
「毎日の食事であるのに、ご飯にかける汁の量を毎回間違えてしまうとは……。こやつの代で北条家も終わりになってしまうだろう」
この氏康の予言は奇しくも当たってしまい、そのためにこのエピソードが語り伝えられたといっていいだろう。
氏康の先見性と息子の才能についての見識があったということと、氏政がいかに凡庸で戦国武将としての能力が欠けているかが理解できる話である。
ここで、終わってしまえば、それまでの話なのだが、待てよ、と考えてしまうことがある。
そこまで、息子の凡才を見通していたならば、なぜそれを防ぐ手立てを考え、用意しなかったのだろうか、ということである。
息子が憎いわけではない。
むしろ愛していたからこそ、凡才であるけれど後継者から外さなかったのだろう。
ならば、息子が破滅に向かうならば、その未来を変えるための体制づくり――ブレーンやその他の環境整備、その他の対策や対処をしていなかったのか。
もちろん、これは私の乏しい知識からの判断なので、実際には具体的な処置、北条家の存続のための布石を打っていたのかもしれない。
それでも、それが機能しなかったことは確かで、北条家は滅びの道を進んでいくのである。
そうしたことを考えると、父の北条氏康は、親子の情で、非情になりきれなかった、ということだろうか。
または、たとえ、息子が凡庸であっても、天下に難攻不落と言われた小田原城があれば、どんな事態になっても大丈夫だと楽観していたのかもしれない。
後継者が凡庸であっても、大丈夫なのは、戦国時代ではなく平和な時代でなければならないことは江戸時代をみれば分かる。
江戸時代の将軍は、後継者としては凡庸であることも存続することの必要十分な条件であった。
しかし、北条家の時代は戦国時代であり、凡庸さはそのまま滅びへと直結する。
その意味では、父の北条氏康も、子には甘い、名言を残しただけの君主であったという非難は免れないのではないか、という気がする。
(フリーライター・福嶋由紀夫)