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教育としての映画(映像)というメディア

 

教育としての映画(映像)というメディア

 

 かつて、ある著名な俳優に話を聞いたことがある。

 その俳優は、インタビュー当時は、低迷期だったのか、あまりテレビなどで見かけることがなかったが、その後、バラエティーに出るなど、大ブレイクして今では誰も知っているというほどの著名人になっている。

 その俳優は、演技者でもあると同時に、脚本なども書いたり、アイデアを提供したりと、映像関係には一家言を持っていて、盛んに将来、自分がやりたいと思っている映画のテーマについて熱弁をふるっていた。

 その中で、なるほどというか、なぜ映像メディアに対して、それほど熱心になっているのか、ということが理解できた話がある。

 それは、映画は娯楽ではなく、映像による教育であるという持論だった。

 正確であるかどうかはあまり時間が経過したので自信はないが、おそらく次のような趣旨だったと思う。

 「映画はハリウッド文化が元になっているけれど、ハリウッドというと娯楽超大作といったエンターテイメントを想像しやすいが、それは表向きであって、本質は教育宣伝なんですよ。映画を通して世界に民主主義文化というのを伝えるための道具です。ご存じのように、世界は宗教や民族、国家によって言語が違っているので、言語を習得しないと、お互いの言いたいことを伝えることができない。ところが、映画のような映像だと、文字では伝えられないことをドラマストリーで伝えられる。男女の俳優の演技によって、言葉が理解できなくても、ある程度のことはわかる。それこそ美男美女が、突然出会って、恋に落ち、恋愛をして結婚する。これは、要するに、自由な恋愛ができるという民主主義の精神を映画によって無意識に宣伝教育しているんです」

 私は、そういえば、スポーツでもアメリカ発祥のプロ野球は、9人という選手が、互いに協力しながら役割分担をこなして勝負するという民主主義から来ているルールだと聞いたことを思い出した。

 理念として文字による伝達は、翻訳という行程を通じ、それが一般化されるまでは、かなり時間がかかってしまうが、映像メディアだと視覚から入るので、インパクトがあり、また理解しやすいので、瞬く間にその影響が拡散していく。

 言葉を伝えなくても、そのイメージが直接的に脳の中に入っていく。しかも、文字によるものよりも、情緒的で感情的な刺激となって人の行動様式に影響を与えてしまう。

 ドラマチックであるがゆえに、映像メディアは、人を感情的に動かす(いい悪いは別として)メディアである。

 事実というドラマを映像によって再現するために、事実そのままを羅列すると何があったのかわかりにくいものになってしまうので、編集作業を通じてストーリー的に再現し、その会社や送り手のプロデューサーの意図をメッセージとしてそこに紛れ込ませているのである。

 そのシーン自体は事実であっても、それをどう編集して報道するかによって見方がまるで変わってしまうという、事実という名のフィクションという側面もあるわけだ。

 この教育的な効果を狙った映像メディアは何も、アメリカの発明ではなく、その淵源をたどれば、おそらくナチスドイツのゲッペルスによる宣伝映画というものに突き当たるかもしれない。

 国民感情を動かし、どのようにリードしていくか、そのような役割を映像に求めて、ドラマチックに演出するプロパガンダというものを作り上げたのが、ゲッペルスである。

 いくぶん怪しい面もあるが、彼が言ったといわれている言葉が、「ウソも100回言えば事実になる」というもので、ウソであっても、それを映像で事実らしく演出し、何度も繰り返すことによって事実として認識されてしまうという、人間の心理を操る方法を見出したといえるだろう。

 それは何もドイツ、アメリカばかりではなく、戦争の時に戦意を昂揚させるためのイデオロギー的な報道や大本営発表のような誇大な報道、そして、共産主義世界でも、この映像宣伝は盛んに利用され、宣伝工作隊という部隊さえ組織されて各地で宣撫活動した。

 その意味では、映画を慰安や娯楽的なものではなく、その表現を借りて、自分たちの意図を知らず知らずのうちに大衆に浸透させていくという教育手段として利用していたのであるといっていい。

 映像メディアは、その意味で、恐ろしいメディアであるとも言えよう。考えさせるのではなく、感じさせることによって、思考の自立を奪うからである。感情をゆさぶることによって、大衆をある方向へと無意識に誘導する。

 その映画の延長線上にあるのが、現在のテレビやユーチューブのような映像メディアであるとみることができる。

 活字の場合、それを読むことで、脳内で理解し、組み立てるという作業プロセスがあるから、どうしても意識的なメディアにならざるを得ない。

 文章というものを読み解き、書いた者の意図をくみ取り理解しなければならないので、どうしても、自分で思考し判断するという「考える」というプロセスが入ってくる。

 その上で、著者の意図を理解し、それが自分の考えと合わなければ違うという判断、思考作業が加わる。

 映像メディアが感情感覚的であるとすれば、活字メディアは知的なメディアといっていいだろう。

 もちろん、活字にしても、読者を一方向へ誘導する面があるけれども、それは映像メディアに比べれば、ずっと少ないのではないかと思う。

 とはいえ、映画などの映像メディアは、もちろん、プロパガンダ的な側面ばかりではなく、娯楽的な楽しみを与えるという面も忘れるわけにはいかない。

 そして、映画などには、その国独自の表現世界、特徴を持っていることも確かである。

 どのようなドラマをその国民は求めているのか。それはその国で制作された映画を見るとある程度、理解できる。

 たとえば、映画評論家の佐藤忠男は、日本の映画と韓国の映画を比較して、日本の映画は忠臣蔵に代表されるように男は絶対に泣かない文化があり、韓国映画は男女がともに泣く情の世界があると指摘したことがある(今ではこの分析も当てはまらないかもしれないが)。

 映画には、その時代のその民族国家の精神が象徴的に表れているということで、ある意味では、どんな映画がその国でヒットしているかによって、その国民感情が理解されるのである。

 その点では、日本映画よりも、韓国映画の方が、そうした国民感情をゆさぶるような意図を持って制作されているとだけは言えそうである。

 ちなみに、最初に紹介した俳優は、自分の作りたい映画は、世界の人々が民族や国家を超えて助け合いをする共存共生の映画と言っていたが、残念ながら、まだその作品は作られていないようだ。

 ぜひ今後、世界の平和に向けて新しい文化を体現した映画が現れてほしいものである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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