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文学者としての森鴎外と夏目漱石

公園のベンチで読書をする文学少女

 明治を代表する文豪と言えば、森鴎外と夏目漱石になるだろう。

 この両者には、生き方の違いというものが垣間見られるのは興味深い。

 庶民派の夏目漱石は、官界を嫌い、大学の職を投げうって小説家として生きることを選んだ。

 それに対して、森鴎外は陸軍のトップである軍医(中将相当、官位では高等官1等、従2位)として生涯を全うしている。

 小説は、その忙しい仕事の合間に、作品を発表し、しかも、漢語を使った格調の高い文体で表現した。

 よく知られているのは、文学というものを認めなかった人でも、森鴎外は別格であるとして書斎に鴎外の全集を揃えていたことである。

 といって、全集を読んでいたかというと疑問で、要するにステータスのシンボルとして全集を飾っていた面がある。

 その意味では、中身よりも外形を彩った地位や名誉といったものに重きを置く人々にとっては、階級社会を上り詰めた人物として、森鴎外はアイドルの象徴的な存在だった。

 文学というのは、下賤な者のやることだが、それを片手間にやって、しかも、ヒエラルキーのトップである官位を有しているという鴎外は、スーパースターでもあったのだ。

 そこには、文学的価値観は入っておらず、ただ官界での地位が物を言った官僚的な考え方が背景にある。

 つまらないものに生涯を賭けている文学者は、社会的落伍者、失敗者といった評価だったのである。

 当時の文学や芸術に対する見方は、おおむねそうしたものであった。

 今でこそ、新聞雑誌などのマスコミも、第四の権力としてもてはやされている面があるが、当時はかなり評価が低かった。

 マスコミジャーナリズムを担っていたのが、幕末明治の時代、敗者となった幕府側の武士などであったこともある。

 勝者である政府への批判をするために、筆を使って戦いを挑んだという面がある。

 森鴎外の歩とは別に、庶民派の夏目漱石は、逆に官界を嫌い、上から指示されるのを嫌い、地位や名誉を嫌ったことはよく知られている。

 漱石は、江戸(東京)下町の生まれで、親は名主をやっていた家系である。

 まさにバリバリの庶民であり、権威や権力に対して反骨精神を持っていた。

 そうした漱石の生い立ちが、勝者である明治政府の官僚であることに対する反骨的な態度を取らせたといってもいいかもしれない。

 当時は、大学教授というのは、官僚としても地位名誉のある職業で、現代的な表現を使えば、勝ち組である。

 だが、漱石はそれを嫌って自由な立場である作家としての道を選んだ。

 これは当時としては、ある意味、スキャンダルでもあった。

 それほど漱石は、政府の役人になることを嫌ったのである。

 その作品も、民間の芸である落語に文章の範を求め、口語表現で親しみやすい文体で物語世界を構築した。

 落語の言葉が口語であるのは、その対象が庶民であったことがある。

 落語はもともと庶民に分からない漢語的な表現は受けないので、分かりやすい表現、江戸時代で言えば戯作的な会話が元になっている。

 それは漱石には幼少時代から親しんで来た世界である。

 漱石は、みずからの出自である町民階級の中で、心の安寧を求めるために、町人文化をアイデンティティを軸にしていた。

 だからこそ、口語的な文体はみずからの生活そのものでもあった。

 その点では、同じ江戸東京の出身である作家の芥川龍之介が下町に生まれながら、その世界から背伸びをして知的な文化にあこがれ、その両者のギャップで感性の破綻を来たしてしまったことと対照的な生き方と言えるだろう。

 いわば、漱石は東京という江戸文化と外来の西洋文化の狭間の中で、身を横たえて、両者の生き方や哲学を体現しながら、結局、その両者の統合と調和を成し得ずに終わったといっていいかもしれない。

 漱石は、晩年、伊豆修善寺で、喀血して一種の悟りを開いたことはよく知られている。

 「則天去私」という言葉がそれである。

 無私の精神といった解釈がされ、文学に対する修業が高い境地に達した言葉として弟子たちによって喧伝された。

 それを批判したのが文芸評論家の江藤淳である。

 そうした境地が目標であっても、その境地に達していないからこその表現であり、言葉であるというのが江藤淳の指摘である。

 確かに、そういう面があることは間違いない。

 悟りを開いた人間が、そうした言葉を使うとも思えない面もあるだろう。

 ただ、文学というエゴイズムの相克の修羅の世界から一歩距離をとってみると、「無私」な生き方というものは、理想的なものに見える。

 ただ、そうした生き方を理想としても、現実では文学者として表現者として生きるかぎり、理想そのままでは書き続けることができない。

 漱石の作品は、喀血によって、新しい側面を見せるようになっても、本質は変わらないといっていい。

 小説といものを通して人間世界の本質を探っていくと、男女関係、そして、エゴイズムの問題を避けて通れない。

 その意味では、漱石は最後まで文学者であったと言えるだろう。

 ならば、対照的な生き方をした森鴎外はどうだったのか。

 よく知られているのは、遺言の言葉である。

 「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という言葉で始まる遺言は、何を意味しているのか。

 様々な見解があることは確かだが、死を前にして、すべての栄誉や勲章、地位は虚しいと言っていることは間違いない。

 と同時に、そうした地位名誉に縛られなかった居場所や時代、生まれ育った島根県の石見、津和野の風土のことだけが真実であったという自己認識でもあるだろう。

 軍医としての地位名誉は生前のものであり、死ねばすべては無に帰する。

 そうした覚悟には、官界を嫌った夏目漱石の生き方の信念とどこか重なるものがある気がする。

 その意味では、漱石も鴎外も文学者として生きて死んだといっていいかもしれない。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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