ボリビア宣教史 その1
ボリビア多民族共和国は、南米の中央に位置し、海への出口を持たない内陸国である。国土は、6000メートル級のアンデス山脈を頂く険しい山岳地帯と、アルティプラノと呼ばれる高原地帯、そして熱帯低地からなる平原地帯の三つに分類することが出来る。国土面積は、韓国の約11倍、人口は4分の1である。国民の9割がカトリックの信仰を持ち、スペイン語およびケチュア語、アイマラ語を公用語としている。
世界平和統一家庭連合の宣教師が、初めてボリビアに足を踏み入れたのは、1975年の事である。この年に、創設者文鮮明師は世界120ヵ国に、日本人、米国人、ドイツ人の3人をワンチームとする海外宣教摂理を実施された。韓国人が宣教師として世界に自由に出かけてゆく事が、困難だった時代である。幸運に恵まれて、彼らは比較的早く政府による宗教法人の認可を受けることが出来た。(1978年)
宣教師の運命は、その国の政治動向に左右されるものである。その時は社会的動乱期であった。1952年の社会革命によって、農地解放、教育の自由化、産業の国有化を達成した、ボリビアだったが、貧困層の救済、社会的差別の撤廃、経済の発展など問題は山積していた。政変に次ぐ政変で政治は常に不安定だった。1982年には左翼政権が権力を握った。二年間の社会主義政府の失敗により、ボリビア国民は年間2万6千パーセントものハイパーインフレに苦しむこととなった。
1980年の軍事クーデター時には、大統領官邸の近くのビルにあった教会に銃弾が撃ち込まれる事もあった。また、社会主義政権は、宣教師に赤字で書かれた殺害を予告する脅迫状を送ってよこした。当時世界は、ソ連共産主義による世界支配の脅威にさらされていた。そのため、家庭連合は、勝共運動を世界的に展開していた。世界宣教本部の指示により宣教師は一時ボリビアを離れざるを得なかった。
その後、再びボリビアに戻った日本人宣教師の岩澤春比古宣教師は、困難な社会状況のなかで、地下活動で伝道を続けた。文鮮明師を再臨のメシア、真の父母様と告白する青年が少しずつ集まりだした。
その後、1992年に初の韓国人宣教師イ・グァンウ宣教師が派遣され1年間活動した後撤収し、1994年にイ・ジョンムン宣教師と日本人女性宣教師が10人ボリビアに送られた。スペイン語がしゃべれないにもかかわらず、彼女らは、公園で伝道し、訪問販売を通じて教会の経済を支えた。
李宣教師と10人の女性宣教師は、翌95年に文鮮明師、韓鶴子様すなわち真の御父母様をお迎えして首都ラパス市で講演会を持つこととなった。当時、文師は75歳、ご夫人は52歳であった。ラパス市は海抜3800メートルで世界一高地に位置する首都である。旅行者にとって高山病が危険な場所である。しかし、1時間の講演中、文鮮明師は実に堂々とお話しをされ王者の風格を示された。また、翌96年には、韓鶴子総裁が、再度ラパスを訪れ1500人の青年の前で、「救援摂理史の原理観」の講演をされた。このとき、お母様は「青年が集まったこの国は希望がある」と語られた。
1996年に国家メシア摂理と、南米33ヵ国4200人日本人女性宣教師摂理が開始された。ウ・ジョンシク(のちにシン・ミョンギ)韓国国家メシア、佐川誠一郎・春枝夫妻日本人国家メシア、ジェレミー・ジョーダン、千佳子夫妻イギリス人国家メシアが派遣された。さらに、120人の女性宣教師がボリビアに到着した。彼らはその年の11月に行われる全世界360万組の家庭を祝福する使命を持っていた。彼女らは家庭訪問と街頭で祝福活動を行い、3万組を達成した。
順調に発展してきた家庭連合に、2002年に不運が襲った。この年に行われた大統領選挙の時期、全く身に覚えのないことで、マスコミの全国的批判を浴びる事となったのである。もともと、宣教師は政治的に厳密に中立を守るのが原則なので、特定の候補を応援するようなことはなかったのである。当時、本命とみられていた、保守派の重鎮の政治家は、投票日を数週間前にして、「若手の候補者」に劣勢だった。そこで、この重鎮の政治家は逆転勝利するために悪辣な謀略を用いた。ボリビア家庭連合の教会本部に子飼いの新聞記者をスパイとして送り込み、全くの嘘の記事を書かせた。「家庭連合は危険な政治的謀略団体だ。この国を支配しようと企んでいる。『若手の候補者』はその一味だ。彼に家庭連合は多額の資金援助をしている。悪辣な団体と手を組んでいる彼は大統領にふさわしくない」という内容をテレビまで用いて大々的にキャンペーンした。
投票日までの二週間、全国のテレビと新聞は、面白おかしく家庭連合の批判記事を流し続けた。極めて悪質なこの選挙作戦は功を奏して、劣勢だった保守派重鎮の政治家が劣勢をひっくり返し当選した。しかし、卑怯なやり方を天が許すはずがなく、この大統領は任期途中に国民から石を持って追われ、アメリカ合衆国に亡命していった。しかし、これ以降、ボリビア政治は、反米左翼へと流れを変えていくことになるのである。
この事件で家庭連合は大打撃を受けた。教会のイメージが最低になり、繋がっていた人達の多くは離れてしまった。その後2年間は伝道の運勢が消えてしまった。
2005年に流れが変わった。突然沢山の人が伝道されるようになったのである。狭い伝道所はいつも満員で、通路で講義の順番を何人もの人が待っている状態であった。大学のキャンパスで、学生に声をかけると、嘘のように簡単に動員することが出来た。ちょうど、大学から家庭連合まで霊的にベルトコンベアー通路が出来ていて、それに伝道対象者を乗せてやると、自動的に教会まで運ばれてゆき、統一原理を受講し復活してゆくという、奇跡的体験であった。このとき復帰されたメンバーは今日まで運動を離れることなく、現在活動の中核となっている。
このとき、天では何か大きな摂理が進行中なのだな、だからこんなに霊界の共助があるのだと感じられた。その年の9月に理由が判明した。「天宙平和連合世界120都市巡回講演ツアー」で文鮮明・韓鶴子総裁ご夫妻が10年ぶりにボリビアに来られるというビッグニュースが飛び込んできたのだ。
佐川誠一郎 記